【一五歳:無風】〜空〜
うなじが、ちりりと、粟立った。
……。
妙だ。
何故、なにも起きない。
……いや。
たった今、放ったばかりだ。
言葉が染み入り、理を手繰り、起源を引き戻すまでには、わずかな間が、要る。
ウブメを屠った時も、放った言葉が形を成すまでには、息を一つ、二つ、置いたではないか。
待てば、来る。
暗がりの一点を、見据える。
一つ。
二つ。
……三つ。
無い。
一粒の塵が、指先を掠めるほどの揺らぎすら――無い。
理に言葉が触れ、事象の枠を内から動かすとき、場の気は、微かに、だが確かに、うつろう。
熱を伴う、あの手応え。
だが今、厳格な作法を以て起源を辿ったというのに、この蚕は微動だにせず、場の気は、塵ひとつ、揺らがぬ。
放った言葉が、底のない虚空へ落ちた小石のごとく、波紋ひとつ残さず、飲み込まれていく。
「…………な」
声が、喉の奥で引き攣る。
そんな、馬鹿な。
あり、得ぬ。
長い歳月を費やした採訪。
古文書の解読から始まり、村人の何気ない言葉の端々を拾い上げた因習の欠片。
そして、初代当主が残した手記。
四度の受難とササメの責め苦の一致。
縫い合わせた布に見た、中心から四方へ伸びる、銀の糸。
すなわち――金色姫の伝。
それらを、民俗学の知と、経験をもって、一つの絵として組み上げた。
欠けた欠片など一つもない、盤石な布陣を敷いたのだ。
神を堕ろす作法にも、寸分の瑕疵もない。
だというのに、理が、全く揺らがない。
……いや。
早まるな、順に、検めよ。
作法に、誤りがあったか。
否。
現に、神という上塗りは、寸分の狂いもなく剥がれ堕ちた。
型が違えば、衣の一枚とて、剥げはしまい。
つまり、作法は正しい。
ならば、まだ神性が剥げ残っているのか。
否。
あの上塗りの堕ちていく手応えを、この手は確かに受け取った。
残ろうはずが、ない。
因は、正しい。
業も、正しい。
正しい因から、正しい業を起こせば、正しい果が結ぶ。
それが、理だ。
ならば、これは、起源へ――還らねば、ならぬ。
なのに、還らぬ。
因は正しく、業も正しく、それでも、果が違うのなら。
…………。
答えは、一つ。
ただ一つ、確かめようのなかった因――あれの起源への、見立てそのもの。
それが、根本から、誤っていた。
(間違えた……私が)
唾を、飲み込もうとした。
だが、飲み込む唾も無いほどに、口中は、乾ききっていた。
これは――
『人の信仰』から生まれた存在では、なかったのか。
暗がりの中で、息づく、これは。
何だ。
鳥か。否。鬼か。否。蛇の、神か。……否。
投げる。
片端から、投げる。
知っている限りの名を。
括れる限りの、檻を。
そのことごとくが、触れた先から、ぬるりと滑り落ちる。
どの檻にも、収まらぬ。
次の、名が。
出て、こない。
これは――
これは、
…………。
頭の中で、文が、千切れる。
述語を探して、指が空を掻くように、思考が、宙を掻く。
だが、結ぶべき言葉が、どこにも無い。
これは、これは、と、同じ二語だけが、出口を失って、空回り続ける。
いかなる知の書庫をひっくり返しても、目の前の存在を定める言葉が、一つも、見つからなかった――
*
……何だ。
見られている、と感じた。
波打つ、半透明の、その膜の、奥から。
濁った液の、底の底から。
何かが、ゆっくりと、こちらを――確かめ返している。
目では、ない。
目のような、ものですらない。
だが、見られた。
今、確かに。
ぞろり、と。
背筋の裏を、冷たい指で撫で上げられたような、感触。
心の臓が、勝手に、奔り出す。
今、私は。
正体も起源も知れぬ化け物の眼前に――たった一人、裸同然に、立っている。
息が、浅く、速くなる。
喉の奥が、塞がっていく。
「あ……、あ……」
己が知への、驕りが――崩れていく。
恐ろ、しい。
これ以上ここにいれば、理屈の通じぬ「何か」に、存在ごと、磨り潰される。
逃げねば、ならぬ。
だが――。
最も、最も、恐ろしいことは、これほどの殺意と解体の作法を叩きつけておきながら。
暗がりの奥の、これが。
怒りも、せぬ。
抗いも、せぬ。
ただ、何もせずに、ただ、そこにある――ことであった。
巣を突かれた蜂でさえ、外敵は、刺す。
これは、刺し返しもせぬ。
私を、外敵とすら、数えていないのだ。
*
――ふ、と。
耳のすぐ脇を、何かが掠めた。
濡れた羽の、重い、羽ばたき音。
鱗粉が、ほとんど、頬に、触れそうな。
――蝶。
黒と、黄の、鮮やかな、揚羽蝶。
その蝶が、ひらり、と、舞って。
白い膜の上へ、降りた。
止まった、脚の先が。
膜に、沈んだ。
輪郭がにじみ、形が、ほどける。
蝶を蝶たらしめていた、その境目が。
白い膜に吸い取られ、混じり。
もがきも、せず。
その膜の中へ、沈み、溶けた。
「ひっ……」
*
あとのことは、よく、覚えていない。
頭の中が、真っ白に、灼けて。
それでも、この、手が。
私の意志を、まるで無視して、動いていた。
懐の、差し金を抜く。
鍵穴へ、滑り込ませる。
捻る。
かちり、と、舌が戻る。
来た時と、違わぬ、無音のうちに。
私は、海老錠を、元へ復す。
考えて、選んだのではない。
崩れ落ちた、その下に、叩き込んだ何かだけが残って。
痕跡を残すな、と。
それだけを、私の手に強いていた。
冷たい廊下を、どう抜けたのか。
気付けば、自室の前にいた。
小夜の顔を見た途端、膝から崩れ落ちそうになる。
「若様……。どうされました、お顔の色が、まるで……」
その先を、小夜は、言わなかった。
「…………」
私の口も、動かなかった。
ひと言も。
無言のまま、部屋に入り、戸を閉めた。
文机の縁を、掴む。
震えて、いる。
爪が食い込むほど、握りしめても。
止まらない。
*
四つの、あの日。
あの座敷で。
見るに、値せぬものとして。
なのに、また。
止まらぬ手を、もう片方の手で、包む。
それでも、掌の中で、小さく、小さく、震え続けて。
いつまでも、止まら、なかった。




