【一五歳:無風】〜逆祝詞〜
引き戸が、軋みながら開く。
窓ひとつない、狭い前室。
奥の壁には、注連縄を巡らせた襖が一枚。
その襖に指をかけると、指先が震えた。
寒さゆえではない。
この匂いも、この澱んだ闇も、肌が先に覚えていた。
まだ四つだった、あの頃の肌が——
あの刻、私はここで、空と断ぜられた。
同じ繭に触れた姉の指には、銀の糸が生き物のごとく絡みついた。
私の指には、何ひとつ。
篝火も、あれも、私のほうを見はしなかった。
かつての私は、棄てられに、連れて来られた。
——今は、葬るために、ここにいる。
*
す、と、襖が、滑る。
堰を切って、饐えた匂いが押し寄せる。
鼻の奥をぬるりと撫でていくその底から、二本の和蝋燭の灯が、白木の箱をゆっくりと浮かび上がらせていた。
箱の中で、白いものが息づいている。
闇の底にわだかまり、緩やかにうねりながら。
腐り朽ちて、なお村に崇められてきた神。
私は、その白いものを検めながら、手順を反芻する。
まず——あれの纏う『神聖』という殻を、引き剥がす。
神を讃え祀り上げるための祝詞。
それを、逆しまに用いる。
荘厳な文脈の裡へ、民俗学が暴いた身も蓋もない事実を、毒のように一滴ずつ落としていく。
聖性の韻律を内から軋ませ、矛盾させ、ついには自壊へと追い込む。
すなわち——『逆祝詞』
だが、それだけでは足りぬ。
私がこの夜のために編んだのは、ただの逆祝詞ではない。
律令の世、祟る神の位を朝廷が剥ぎ取り、ただの妖へと貶めた、神階剥奪の宣命。
大地を踏み鎮め、結ばれたものを解いて要素へ還す、陰陽道の反閇と、道教の解形。
神道、陰陽道、道教、外法――この国の闇に蠢いてきた呪の理を、ことごとく繙き、喰らい尽くした。
そのうえで、いずれの正統からも、あえて外れる。
ただ神を一柱葬り去る、その一事のためだけに、鋳直した儀。
名など、ない。
これは、私だけの、解体の作法。
*
懐から、黒い砂を一掴み、取り出す。
砕いた墨と、鉄の粉。
それを、繭を囲うように、闇の床へ撒いてゆく。
さらり、と乾いた音を立て、黒い粉が、見えざる輪を地に描いた。
その輪の内へ、右足から踏み込む。
だらりと下げていた両の手を胸の前で合わし、指先を絡め、古神道の印を結ぶ。
神仏に祈るわけではない。
霊力を練るわけでもない。
複雑な印の、その形だけを模す。
この場に敷き詰められた『神事の理』という鍵穴へ、強引に合鍵をねじ込む手順。
繭へ、目を据える。
暗闇に向かい、事象の理を書き換えるための呪詞を、静かに紡ぎ出す――。
「――現つ神と、坐す。網代の郷、白繭が社。これに、申し渡す」
高く、事務を読み上げるがごとき声音。
「汝、本を糺せば、都の籍に連なる一柱の神なり。されば、その位、その神籍――今この時を以て、悉く削り、奪う」
左足を高く掲げる。
膝が胸に届くほどに。
そのまま、黒い輪の上へ踏み下ろす。
どん。
次いで右足を掲げ、別の一点を踏み締めた。
どん。
反、閇。
大地を断ち、踏み鎮めるための、歪な舞。
おのれの足で見えざる星形を地に刻みながら、繭の周囲を巡る。
踏むたびに、唱える。
「――汝を編みし、幾千の糸。ひと筋、ひと筋、これ、解く」
どん。
「ひと結び――解けたり」
摺り、踏み、また摺る。
歪な歩法で黒い輪の上をなぞり、繭をぐるりと回り込んでゆく。
「ふた結び――解けたり」
どん。
一歩を踏み、ひと結びを解くごとに、繭を覆っていたあの神々しくも忌まわしい光が、一筋ずつ、引き抜かれるように輝きを失ってゆく。
「み結び――解けたり。よ結び――解けたり」
どん。どん。
編まれたものは、解ける。
結ばれたものは、ほどける。
この虫に結びつけた、神という名のまやかしの糸。
それを今、おのれの足と舌で、一筋残らず手繰り出し、引き抜いていく。
ひと巡りし、星形の最後の一画を踏み締めた、その時――繭を包んでいた光は、ことごとく、消え失せていた。
残るは、ただ白く、ぶよぶよと膨れあがった、肉の塊。
輪の中央へ進み出て、その真正面に立つ。
両の掌を、ゆっくりと、その肉塊へ翳した。
この虫の、卑しい素性を――暴く。
「――汝、神に、あらず。時至りて羽化すべきを、羽化し得ず。繭の内に、いたずらに、腐ち爛れたる――不全の、天蟲。羽化し損ねの、蛹ぞかし」
解いた指を、再び固く――刀印に結ぶ。
人差し指と中指を剣のごとく立て揃え、残る指を鞘のように握り込む。
「否。汝が業の根は、さらに、深く、昏し。この敷島の生りに、あらず。遠つ、天竺の、姫。継母の悋気に、疎まれて、櫂なく、艪なき、空舟。蒼海の波の、随に流離い、この秋津の、磯辺に、漂着せしもの」
立てた二指の切先で繭を裂くように、闇を縦に薙いだ。
返す刃で、横に薙ぐ。
「狼狗の牙に、肉を裂かれ。鷙鳥の群れに、肉を啄まれ。深淵の水底に、魂魄を蝕まれ。果ては、朽木の棺に、斂められたり。四たびの、受難。その劫罰の果てに、人の貌を、剥ぎ取られ。蠢く、蟲の身へと、堕ちたるなり」
その切先を、繭の芯へと突き入れる。
刺し貫くように、ただ一点へ――忌名を、穿つ。
「――その名を、『金色姫』と、いう」
(…………)
「汝が、零落の、果ての、号ぞ。都の卿相雲客ども、おのれが累ねし呪詛と穢れ、その捨て所を、求めしとき。海つ彼方より流れ寄りし、この、堕ちたる蟲の縁起を、模し――罪無き村の娘に、依坐の軛を、負わせたるのみ。神に、あらず。姫にも、あらず。ただ、滄溟の涯より漂着せし――一匹の、賤しき、蟲。これぞ、汝が、真の、正体ぞ」
背を、汗が伝う。
「神籍は削ぎ、神糸は解き、素性は糺した。寸毫の瑕もない」
崩れよ。
「その爛れし肉を白日に晒し――ただ一匹の、蟲の骸に還れ」
……崩れよ。
しかし。
異変は、思考よりも先に、肌が捉えていた。
手応えが、全く、無い。




