【一五歳:無風】〜理外の罠〜
開き放たれたままの、襖。
その奥に淀む闇を、私は、ただ見据えていた。
針を、打ち込む。
胸の内で、そう、言い切った――はずであった。
だが、その一言を最後に、私を突き動かしてきた何かが、糸の切れたように、ふつりと止んだ。
策に、揺らぎはない。
寸分も。
なのに、膝に置いた手の、指の一本すら、持ち上がりはしなかった。
*
どれほど、そうしていたのか。
気付けば、行灯の火も、いつしか消えていた。
口中に滲んだ鉄錆の味は、とうに薄れている。
それでもなお、あの能面の笑みだけは、瞼の裏に刻み込まれたまま、消えはせぬ。
闇の中で、ひとつ、深く息を吐いた。
胸の底に凝ったものを、その一息に絡め取り、吐き捨てるように。
長い息の尾とともに、瞼を、上げた。
吐き終えた喉奥の冷たさが、私を、現へ呼び戻す。
「……約束の、刻限だ」
文机へ手を伸ばし、火打ち石を取った。
そのまま、行灯の傍らへにじり寄る。
かちり、と石を打つ。
散った火花が灯心に移り、小さき炎が、点った。
その火が、いつしか乱れていた私の息に煽られ、ゆらりと揺れる。
離れた小夜と私とを繋ぐ、ただ一つの、糸。
その火の前へ、片手をかざし――すっと、横へ滑らせた。
炎が遮られ、障子の灯りが、ふっと翳る。
一度。
間を置いて、二度。
そして――三度。
闇の向こうへ、耳を澄ます。
物音ひとつ、返りはせぬ。
北の納戸では、いま、小夜が、この翳りを認めたはず。
声も立てず、音も立てず――手筈のとおりに。
あの娘なら、必ず、やり遂げる。
(……なれば、私も)
ゆっくりと、立ち上がった。
懐へ手を入れ、冷たい鉄の感触を確かめる。
錠の臓腑を解く、ただ一筋の鍵。
もう、振り返らぬ。
屋敷の中心――あれの坐す、奥座敷へ。
私は、その闇へと、分け入った。
*
冷たい板張りの廊下を、足音を殺して進む。
奥へ、奥へと向かうにつれ、まとわりつく気の質が、変わってゆく。
生暖かく湿り、肌にねっとりと貼りついてくる。
この屋敷の、最も深い、淀みの底へ。
やがて、私は、その底に至る。
目の前を鎖すは、堅牢な海老錠。
奥座敷の戸。
その扉を前に、ただ、穢れが満ちるその刻を、待つ。
肩の力を、ゆっくりと抜く。
目を、閉じた。
これまでの仕込みを、ひとつひとつ、辿り直す――
霊力を一切持たぬこの身で、いかにして、理外の罠を組み上げたか。
理屈そのものは、至って単純であった。
幾千の観測が成す、神と念じる――その力が、池に投じた石の、寄せては返す波紋のごとく、現を歪めておるのなら。
ならば、逆しまの波紋を、もう一つ。
二つの波が真正面からぶつかれば、互いに喰み合い、嘘のように凪いでしまう。
水も、音も、その理は同じだ。
五行相克――木は土を、土は水を剋す、あの巡り。
その五つの気を、たがいに剋し合う向きに据え、外より寄せ来る信仰の念を、頂から頂へと喰い合わせ、殺す。
そのための、絡繰り。
床下に、伏せ描いた――巨きな、五芒星の陣。
この床下には、五年の歳月をかけ、ありとあらゆる穢れを、楔として打ち込んできた。
篝火の悪意の籠もった反故。
ササメが痛みとともに縫い捨てた、無数の糸くず。
野で拾った、不浄な獣の骸。
神が最も忌み、退けるもの——そのことごとくを、陰陽五行の理に沿って配し、地の底に、目に見えぬ一筋の流れを、穿った。
方位に、髪一筋の狂いも許さぬ。
屋敷の者の寝静まった刻を見計らい、礎の木材や土台石に、音を立てずに溝を刻む。
その溝へ、気を断つ忌物を伏せ、漆と泥で塗り隠す。
ただ、ひたすらに。
幾夜も、幾夜も。
気の遠くなるような、按配と細工であった。
その、仕込みが――いま、この一点へと、収斂する。
――その時。
足の裏から、ぞくり、と。
地の底を、目には見えぬ何かが、一筋、奔り抜けた。
直後。
耳の奥を、恐ろしいほどの無音が、打つ。
肌に粘りついていた湿り気が、圧し掛かっていた重さが、嘘のように引いてゆく。
(……成ったか)
小夜が、やり遂げた。
たった今、この奥座敷はしばしの間、外の観測から断ち切られた、ただ一つの閉じた箱となった。
大注連縄だったものが、一本の紙縒りへと、立ち返り——
言葉が、届く。
今ならば、私の理が、あれの芯を、解き崩せる。
だが。
この隙は、もって半刻。
それを過ぎれば、堰き止められていた幾千の目が、流れ込む。
紙縒りは再び、大注連縄へと縒り直されてしまう。
二度目は、無い。
ゆえに――しくじることは、許されぬ。
*
まず、目の前のこの関を、破る。
懐から、一片の金物を取り出した。
篝火が捨てた折れ簪と、拾い集めた鉄屑とを、幾年もかけて削り出し、調えた、細い一筋。
内に潜むは、ハの字に開いた、二枚の舌。
それが筒の胴に引っかかり、鉤を抜けぬようにしている。
ただ、それだけの仕組み。
鍵などというものは、その二枚の舌を両側からすぼめ、まっすぐに均して、引き抜くための――ただの、道具に過ぎぬ。
そして、その臓腑を読み解いた手がかりは、音であった。
この企てを思い描いた日から、厳蔵が錠を開けるたび、私はその鳴りに、耳をそばだててきた。
金物の触れ合う硬い響き。
錠の内で、消えてゆく余韻。
その一つ一つから、見えぬ内側を遡る。
空ろの広さ。
舌の厚み。
指に伝わるはずの、その撓りまでを。
幾度も、音だけを頼りに、この錠の中を、覗いてきた。
――ならば、この一筋の金物で、事は足りる。
鍵穴へ、金物の先を、滑り込ませる。
指先に、こつ、と、硬い舌の手応え。
測り尽くした、ただ一つの角度で、手首を、捻った。
かちり、と。
舌が、すぼまる。
堅牢を誇ったその錠は、拍子抜けするほど小さな音を残し、開いた。
重い引き戸の縁に、指をかける。
ひやりとした木の感触。
肚に、ひとつ、息を詰めて――




