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【怪体新書】〜民俗学者、異世界で本物と出逢う  作者: 可和
第一章:竹中家の繭

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【一五歳:空洞と虚】 〜穢れのとき〜

 五年だ。

 

 五年をかけて、私は、この一夜のためだけに、すべてを組み上げてきた。

 

 そして今宵――そのことごとくに、決着がつく。

 

 *

 

 大祭の、前夜。

 

 夜の更けたこの刻、外を出歩く者は、ない。

 

 誰もが夜の闇に潜むものを恐れ、固く戸を閉ざしている。

 

 だが、その閉ざした戸の、内から。

 

 漆喰の壁ひとつを隔てた家々の奥から、明日の本祭を待つ(たかぶ)りが、地鳴りのように、こもって伝わってくる。

 

 声を殺してなお、打ち鳴らさずにはおれぬ、囃子(はやし)の稽古。

 

 夜に身を縮めながらも。


 静かな狂熱だけが、闇に沈んだ村の底で、低く唸りを上げていた。

 

 その音の底で、私は、丑三つ時の訪れを、座して待っていた。


 *

 

 村の者どもは、丑三つ時を魔の刻と恐れる。

 

 草木も眠り、妖が跋扈(ばっこ)する、忌むべき頃合いだ、と。

 

 だが、私に言わせれば、それは魔などではない。

 

 この世には、霊力や、鋳型が実体を成すなかで、穢れという力もまた、確かに在った。

 

 目には見えずとも、人の業や、死や、忌みごとの(かす)が、土地の底に、年を経て、濃く澱んでゆく。

 

 それが、夜陰とともに、満ちる。

 

 陽の下では薄く伸びていたものが、闇の深まるほどに(こご)り、丑三つ時――陰の極まるその一点で、ぴたりと、頂を打つ。

 

 村の者が畏れるその力を、私は、ただ利用する。

 

 霊力無き身とて、嘆くには及ばぬ。

 

 火を起こせぬ者でも、すでに燃える炎を借りれば、湯は沸かせる。

 

 歳月をかけて組み上げた、あの『理外の罠』も、それと同じだ。

 

 骨組みそのものは、からくりに過ぎぬ。

 

 だが、ひとたびそこへ、丑三つの穢れが注ぎ込まれたとき。

 

 からくりは初めて、息を吹き返す。

 

 あれを、覆うもの。

 

 それさえ剥げば、あとは、私が。


 ——と。

 

 襖の向こうで、衣擦れの音がした。

 

 次いで、膝をついた気配。

 

 「……若様」

 

 小夜か。

 

 私は腰を上げ、文机の上の木札を取って、廊下へ出る。

 

 小夜と言葉を交わす場所は、私室ではなく、この廊下と――かねて、決めてあった。

 

 この廊下は、長い。

 

 たとえ遥か向こうからでも、人が来れば、まず提灯の灯が先に立つ。

 

 気取られる前に、いくらでも身を退けられる。

 

 それに数日前。この屋敷の内で覚えた、あの悪寒。

 

 床の闇の底から何かにじっと覗かれていた、あの感触が、いまだ拭えぬ。


 以来、四方を壁に閉ざされた部屋の内が、かえって信じきれなくなっていた。

 

 見通しの利くこの暗がりのほうが、まだしも(ぎょ)しやすい。

 

 廊下の先へ、目を凝らす。

 

 墨を流したような闇が、ただどこまでも続くばかりで、提灯の灯ひとつ、見えはしない。

 

 それを確かめてから、私は、声を落とした。

 

 「小夜。手筈は、覚えているな」

 

 闇の中で、小夜が深く頷く。

 

 そして、低く(そら)んじた。

 

 「丑三つ時の、半刻前。北の納戸に、潜みます。若様の行灯が、障子の上で、三度、翳るのを合図に――床板を外して、床下へ。北の隅の要石、その傍らに、この札を、力の限り」

 

 寸分の、狂いもなかった。

 

 幾度も、胸の内で繰り返してきたのだろう。

 

 「……あたし、しくじりません。何があっても」

 

 「よろしい。打ち込んだら、留まるな。すぐに元の納戸へ戻り、息を殺しておれ」

 

 「はい。若様も……お気をつけ下さい」

 

 私は、手にしていた木札を、その小さな掌へ、そっと握らせた。

 

 黒く煤けた、一枚の札。

 

 この屋敷の床下に幾年もわだかまってきた穢れを、念入りに塗り込めて仕込んだ、ただ一つの鍵。

 

 言うべきことは、これで尽きた。

 

 あとは刻限まで、互いに、ひとり。

 

 「……行きなさい」

 

 小夜は、いま一度深く頷くと、木札を胸に抱え、廊下の闇の奥へ、音もなく退いていく。

 

 その小さな背が、墨色の暗がりへ、すうっと溶けて、消えた。

 

 あとには、灯ひとつない長い廊下の闇。

 

 私は、それを見届けてから、襖を閉てて、文机の前に座した。

 

 あと——一刻。

 

 行灯の灯心が、じり、と音を立て、わずかに痩せる。

  

 膝の上で握った拳が、いつのまにか、じっとりと汗ばんでいた。

 

 束ねた荷の傍らには、白布にくるんだ細いものが、一本、横たえてある。

 

 穂先(ほさき)に、後れて効く眠りの毒を含ませた、一本の針。

 

 これを使う日が来ぬことを、私は、半ば願っていた。

 

 この村の古き呪縛さえ解ければ、ササメも正気を取り戻す――そう、期して。


 *

 

 外に漏れ聞こえていた祭りのざわめきも、いつしか退いていた。

  

 屋敷が、咳ひとつなく、静まりかえる。

 

 その静寂の底へ、私はただ、耳を澄ませて、気の高鳴りを沈めていた。


 ――その時。

 

 目の前の襖が、わずかに、動いた。

 

 気のせいか。

 

 いや。

 

 たしかに、動いている。

 

 一寸。


 また、一寸。


 閉てたはずのそれが、ひとりでに、音もなく、横へ滑っていく。

 

 口を開けているのは、長い廊下の闇。

 

 その奥から、白く大きなものが、音もなく、這い入ってきた。

 

 「――半兵衛」


 その姿を認めた刹那、頭が、受けつけなかった。

 

 ありえぬものを前に、ただ、空転した。

 

 口の中が、からからに乾いている。

 

 (馬鹿な……なぜ……)

 

 あの廊下に、提灯の灯は、ひとつとてなかった。


 この目で、確かに、見届けた。


 誰ひとり、来られるはずがない。


 まして――たった今、小夜とこの企ての一切を、語り終えたばかりの、この刻にだ。

 

 いつから、そこにいた。

 

 どこから、来た。

 

 そこに立っていたのは、私の知る竹中ササメでは、なかった。

 

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