【一五歳:狂騒】〜謀らい〜
網代村が、数百年の来し方でも、指折りの境目を迎えようとしていた。
『白繭大祭』――当主が代を譲り、次の依代を、神へ捧げる儀。
その三日前を、迎えていた。
村の気が、変わる。
激しく、そして、おぞましく。
常は静かで陰気なばかりの農村が、この時ばかりは、何かに憑かれたような熱に浮かされていた。
早朝から日暮れまで、祭囃子を稽古する太鼓と笛の音が、絶えることはない。
それは、祝いの喜びを奏でる音にあらず。
腹の底を直に揺さぶり、人の理性を痺れさせる、呪詛にも似た調べであった。
村人たちは血走った目で走り回り、桑畑の手入れすら打ち捨てて、ただ大祭の支度に追われていた。
「今年は豊作だ。見てみろ、あの桑の葉の艶をっ。白繭様が、お喜びになるぞ」
「ああ。竹中の娘御も、さぞ立派に仕上がったことだろう。ありがてえ、ありがてえ……」
風に乗って届く村人の声に、神への純な感謝などは、ない。
あるのはただ、おのれという一人を塗り潰し、みなへと溶けてゆくことへの――盲いた、粘りつくような恍惚。
その群れの中に、見知った顔もいくつかあった。
庄助という老いた農夫は、日に灼けた肌も、節くれ立った指も昔のままで――ただ、目だけが死んでいた。
意味を成さぬ祝詞を念仏のように繰り返す口元には、もはや人らしさの一片も残っていない。
個が消えたのではない。
この祭りという巣に、初めから寸分の狂いもなく嵌め込まれていた――ただ、それだけのこと。
彼らはもはや、人ではない。
考えることをやめ、たった一匹の親虫に仕えるだけの――無数の働き虫へと、成り果てていた。
*
屋敷の中もまた、異様な気に張りつめていた。
私室の文机には、五年の歳月をかけて描き上げた村の絵図と、陰陽府へ至る道を記した覚書とを広げてあった。
古文書から地理を抜き出し、裏山の獣道を踏み分けて、村の結界を、最も早く抜ける道を割り出した。
大人の足なら、三日で街道へ出られる。
そこから京までは、さらに五日。
台所や蔵から少しずつ掠めてきた路銀も、竹筒に一杯になった。
いつでも発てるよう、わずかな荷は固く束ねてある。
(……支度は、整った)
おのれに言い聞かせ、鉛のような塊を喉の奥へ呑み下す。
そして机上の絵図に、すっと一本、墨の線を引いた。
裏山から外の世へと抜ける、逃げ道。
筆を置く。
ふと、六つの頃の記憶が胸をよぎった。
いつかこの村を出ようと、姉と交わした、幼い日の誓い。
手元の反古紙を細く裂き、一本の紙縒に縒り上げ。
その両の端を、左右へ引く。
ぷつり、と。
呆気なく、千切れた。
かつて屠ったウブメのごとき妖なら――この一本の紙縒と、変わらぬ。
だが――
ちぎれた紙縒を指で弄びながら、奥座敷のある方角へ、目を向けた。
幾重もの襖と闇に隔てられた、その暗がりの、奥。
一本の紙縒も、数千と編み込まれれば、決して引き千切ることの適わぬ……大注連縄となる。
――と。
「……若様」
障子の向こうから、押し殺した声。
――小夜か。
「入りなさい。……誰にも見られていないな」
「はい。お差配様は、若衆頭との寄り合いに出ております。奥方様も、拝殿のほうへ」
小夜は音もなく滑り込み、後ろ手にそっと障子を閉めた。
小夜も、いつしか十五になっていた。
野良に灼けた肌も、うなじで切り揃えた短い髪も、昔のままだ。
だが、障子を引く手つきには、もう子供の気配がない。
かつては。廊下を駆けては叱られていた娘が、今は足音ひとつ立てず、私の前に膝をついた。
見開いたその目の底には、もう後へは引けぬと肚を据えた者の光が、宿っていた。
小夜は懐から藍色の風呂敷包みを取り出し、机の上に置いた。
結び目を解くと、中には干し飯の塊と、竹筒の水、それに手拭いが数枚、収まっていた。
「これ、台所の瓶からこっそり失敬してきました。干し飯なら日持ちしますし、重くもありません。三人で分けても、三日は保つと思います」
「よくやった、小夜。……だが、見つかればただでは済むまい」
「平気ですよ。みんな、お祭りのことで頭がいっぱいですから。勝手場のおばばなんて、鍋を焦がしても気づかないくらい、呆けてました」
気丈に笑ってみせているが、その指の先が、小刻みに震えていた。
無理もない。
私たちがしようとしているのは、ただの家出ではない。
この村が数百年、後生大事に祀り上げてきた神への、あからさまな叛き。
露見すれば、生きてこの村を出ることは、まずあるまい。
もう、引き返せぬところまで、私はこの娘を巻き込んでしまった。
「……怖いか」
小夜は一瞬だけ視線を泳がせ、それから真っ直ぐに、私を見つめ返した。
「怖いです。足が震えて、立っているのがやっとで」
「そうか……」
「でも……ここにいるほうが、もっと怖いです。このまま何もせず、ササメ様があの繭の中へ連れて行かれるのを、ただ見ているくらいなら……」
その先を、小夜は言わなかった。
ただ、膝の上で握りしめた両の拳が、白くなるほど固い。
この頃のササメの変わりようは、私の目にも明らかだった。
かつては、まだあったのだ。
私の袖を掴んで離さぬ、すがるような指が。
言葉を交わす私と小夜を、襖の陰からじっと窺う、
暗い目が。
篝火の足音に、びくりとすくむ肩が。
そうした、人の心の名残が。
それが今は、根こそぎ拭い去られていた。
何を言われても、何をされても、ただ菩薩のように穏やかに微笑むばかり。
知らぬ者が見れば、悟りでも開いたかと思うであろう。
だが、あれは悟りなどではない。
「ササメ様、最近……あたしが話しかけても、目が合わないんです」
今にも泣き出しそうな声だった。
「あたしのこと、見てるはずなのに……透き通って、後ろの壁を見てるみたいで。笑ってはくれるんですけど、お人形さんみたいで、冷たくて……」
「ああ……分かっている」
込み上げかけたものを、私は、息ひとつで、底へ押し戻した。
ここで連れ出さねば、あれは二度と、竹中ササメには戻らぬ。
小夜から目を逸らし、文机の端へと視線を移す。
絵図と並べて、二つのものが置いてあった。
一つは、鉄屑と折れた簪を、少しずつ削り出してきた、細い金物。
もう一つは、黒く煤けた、一枚の木札。
「若様、その鉄の棒は……」
「……ただの、『鍵』だ」
そう、はぐらかした。
「それよりも、小夜。大祭の前夜――丑三つ時に、お前にひとつだけ、頼みたい大仕事がある」
「大仕事、ですか」
「ああ。その丑三つ時の、半刻前。お前は北の納戸に身を潜めておれ」
「納戸に……?」
「私が行灯の前を、三たび、手をかざして遮る。その灯りが障子の上で、ふっ、ふっと翳る。それを合図に、納戸の床板を外し、床下へ潜り込め。北の隅、地に据えられた要石の傍らへ。この木札を、力の限り打ち込んでくれ」
小夜の目を、真っ直ぐに見据える。
「……これが、この企ての、すべてを決める」
「……若様は。その間、どちらにいらっしゃるんですか」
その声が、わずかに掠れた。
「私は、奥座敷へ向かう。同じ、その合図で」
「あそこには……白繭様が……」
「ああ。それを片付けに行く」
小夜の顔から、血の気が引いていく。
私はことさら静かに続けた。
「声も、物音も立てられん。離れていて同じ刻に動くには、灯りで報せるよりほかにない。私が灯を翳らせたら、それが始まりの合図だ」
「……ササメ様も、ご一緒に逃げるんですよね。なら、先に報せておかなくて……」
「いや――姉上には、知らせぬ」
ことが済んでから、白繭はもう亡い、と。
すべてが終わった後で、私がこの手で伝える。
それまでは、巻き込むわけにはいかぬ。
「……はい」
小夜は、何のことやら呑み込めぬ顔のまま、それでも、こくりと力強く頷いてくれた。
今、私が頼みとできるのは、己の蓄えた知と、この娘のまっすぐな心ばかりであった。
――かつ、と。
廊下の闇の奥で、何か硬いものが床を打つような、乾いた音がした。
私と小夜は弾かれたように顔を見合わせ、交わしかけた言葉が、互いの喉で、ぴたりと止まる。
誰か。
厳蔵か。篝火か。
胸が、早鐘を打つ。
音を立てぬよう立ち上がり、障子に手をかける。
ほんのわずか引き開け、外を、そっと覗いた。
――誰も、いない。
ただ、薄暗い廊下の床に、一匹の揚羽蝶が落ちて、羽を小さく震わせていた。
(……蝶。この屋敷の、中にか)
黒と黄の、鮮やかな紋様。
だが、その蝶はどこか、奇妙であった。
羽が、しっとりと濡れている。
そして、花の蜜を吸うはずの細い口を、床板の節穴へと突き入れ、その奥の何かを、啜っていたのだ。
古来より、蝶は亡き者の魂や、神の使いと伝えられてきた。
その蝶が今、私の足の下――床の闇の底から、何かを啜っている。
「……若様」
「いや……ただの、虫だ。気にせずともよい」
小夜に見えぬよう、素早く障子を閉ざす。
――怖がらせるわけには、いかぬ。
だが首筋には、得体の知れぬ何かに、つ、と撫でられたような悪寒が、残り続けていた。
「小夜。今日はもう、戻りなさい」
「分かりました。……若様も、どうか、お気をつけて」
小夜は名残惜しげに私を一瞥し、音もなく部屋を出ていった。
悪寒を振り払うように、再び絵図へ目を落とす。
理の上では、どこにも、ほころびはない。
「……問題ない。必ず、成し遂げる」
私は絵図を固く、懐へねじ込んだ。
*
夜気が、じっとりと湿って、生温かい。
まるで、巨きな繭の中にいるように。
生臭く湿ったその気配が、この屋敷を、ひたひたと、満たしていた。




