【一五歳:繭の棺】〜刺繍〜
一年が、過ぎた。
骨の髄まで腫れた手で、ありもせぬ糸を摘まみ、虚空に縫い続けた――ササメ。
あれから、姉は奥座敷へ囲い込まれ、私は私の支度に明け暮れた。
互いの間には、いつしか、薄く、されど決して破れぬ隔てが、張られていた。
*
仲夏
白繭大祭まで、ひと月と迫った、その夜。
私は文机に向かい、一枚の襤褸切れを行灯にかざしていた。
もとは目も眩むほどの上物であったろう。
だが今は皺だらけに丸められ、端はほつれ、ところどころに茶色い染みが浮いている。
布の中ほどに、縫いかけの鳳凰が一羽。
天へ舞い上がらんと翼を広げ、ただ右の翼の一番端の羽だけが、図柄から一分、ずれている。
ゆえに捨てられた。
篝火がササメに縫わせ、濁りが混じったと打ち捨てた、出来損ない。
誰も見向きもせぬ、しくじりの残骸。
だが私はこの一年、屋敷の塵芥に紛れて捨てられるこの種の布切れを、奉公人の目を盗んでは、一枚ずつ拾い集めてきた。
長い道のりの果てに、ようやく掴んだ、最後の一片。
残る布は、すでにすべて継ぎ合わせ、文机に広げてある。
あとは、この一片を、空いた隙間に嵌めるだけだった。
指先で、その布の重みを確かめる。
たった一枚の襤褸切れ。
これが、十数年かけて手繰り寄せた糸の、ようやくの結び目。
――そもそもの始まりは、いつだったか。
この世に生を享け、この屋敷の異様を初めて知った、あの日――
*
生まれ落ちたその日、襖の家紋に、私はこの世の裏側を覗いたような心地がした。
やがて言葉を覚え、文字を覚え、夜ごと奉公人の目を盗んでは蔵に潜り、この一族が数百年かけて溜め込んだ書物を、片端から繙いた。
知るほどに、奇怪であった。
なぜこの村は、ただ一匹の蚕をこれほど恐れ、崇めるのか。
なぜ当主は女でなければならず、なぜその身を、都の上つ方へ捧げ続けるのか。
養蚕の神を祀る村は、この国に数多ある。
だがここに立ち込めるのは、神への感謝などではない。
もっと暗く、粘ついた、血の匂いであった。
その正体を、私は幼い時分から蔵の底で探してきた。
*
手がかりは塵のごとく散らばっていた。
絹糸の取引の控えに紛れた覚書。
出納帳の欄外の、意味の取れぬ走り書き。
虫の食うた祭祀の次第書き。
採訪の折に拾った、村人の言葉の端々。
それらを何百と照らし合わせ、十三の年、蔵の最奥で最も古い一巻に行き当たった。
竹中の初代が遺したという、三百年前の記録。
墨は褪せ、虫が食い、判読は困難を極めた。
されど、辛うじて読み取れた一節に――私は指を止めた。
――外つ国より、空ろの船にて、流れ着きし、姫、ありき。
うつろ船。
その一語に、老いた記憶が、応じた。
『金色姫』。
天竺の姫が継母に憎まれ、うつろ船で海を流れ、この国の浜に着き、やがて蚕に化生する。
養蚕の起こりを語る、古い神話だ。
海の彼方から、うつろ船で流れ着いた、よそ者の神。
蚕神なら、ほかにもあった。
馬に嫁いだ娘が蚕となる、おしら様の悲恋。
機を織る、天女の譚。
だが、この伝には、ほかのどの蚕譚にもない一節がある。
姫は四度の苦難に遭う……と。
私は、この四つの苦難を、ササメが受けてきた『お仕込み』の上に、一つずつ、重ねてみた。
*
一の受難。
『姫は深山に捨てられ、狼の群れに肉を裂かれかける』
竹尺と、白絹の鞭――内のみを砕く、あの責め苦。
二の受難。
『姫は鷹の棲む嶺へ追われ、空を覆う群れに、寄ってたかって啄まれる』
穢れの受け皿として、幾人もの手に嬲られる――その躾け。
三の受難。
『姫はうつろ船で海へ流され、櫂もなく帆もなく、深い水のまにまに、正気を攫われていく』
毎夜盛られる、心を蕩かす毒――おのれが誰かも、ここがどこかも、わからなくなるまで。
——ここまでは、もう、済んでいた。
ササメの身は、すでに三つの苦難を、くぐらされた後。
残るは、四の苦難。
『姫は流れ着いた浜で力尽き、棺に納められる』
私は、止めていた手で、最後の一片を――この鳳凰の切れ端を、文机に広げた継ぎ布の、空いた隙間へ、そっと嵌めた。
継ぎ目が、繋がる。
何十枚もの、残骸が、一つの図を結んだ。
鳳凰を囲んで、中心の一点から外へ、外へと、幾重にも、細い糸が伸びている。
それを、初代の記録に遺された図と、引き比べる。
ぴたりと、重なった。
姫を包む、繭。
姫が、最後に納まる――棺。
ササメが濁りを咎められ、打たれ、打ち捨ててきた、出来損ないの数々。
その一枚一枚が、寄り集まって描いていたもの。
それは、ほかでもない――いずれササメが納められる、棺の図であった。
この刺繍をもって――九分九厘の見立ては、確証を得たのだ。
心を砕かれ、我を削がれ、空の器となって、白無垢に包まれ、繭に籠もる。
その四つ目の苦難が、まだ誰の手も触れぬまま。
ひと月の後と、迫っていた。
*
三百年前。
都の上つ方どもは、おのれらの政に積もった呪殺と政争の澱を、いずこか遠くへ捨てる捌け口を欲した。
そして、選んだ。
うつろ船で流れ着いた、よそ者の神。
穢れを引き受け、海を越えて来た金色姫の伝を、模したのだ。
穢れを注ぎ込むための依代。
生きた塵穴。
それを、とある寒村に据えた。
金色姫の名では目立ちすぎ、土着の信心に馴染まぬ。
ゆえに、名を変えた。
糸を吐く、白き繭の神。
『白繭様』と。
一人の村娘が、最初の依代に選ばれた。
穢れの器であり、竹中の初代となった娘。
以来三百年、その血を引く子が当主となり、依代となり、都へ捧げられてきた。
金色姫の四度をなぞらされ、空の器に仕立てられて。
*
私の見立てでは――篝火は、何も知るまい。
金色姫の名も、四度の謂れも。
ただ三百年前に都から授けられた『作法』を、意味も解さず、寸分違わずなぞっている。
なぜそうするのかと問うことすら、許されぬまま。
あの女自身が、意味を抜かれ、形だけを刻まれた器に過ぎぬ。
*
ササメもまた、いずれ、あの器にされる。
その定めを、私は疾うに、見て取っていた。
見て取って、なお、解けると。
そう、見定めていた。
だが——
二人を北外れの土蔵に呼び、この世の成り立ちを説いた、あの夜。
金色姫の名も、うつろ船も、四度の受難も。
私は、語らなかった。
いや――語れなかった。
這いずる汚泥を前にしたときの、ササメの、あの笑み。
そして、白繭は妖の成れの果てに過ぎぬと断じた、その後の――返す言葉。
あれで――悟ったのだ。
狂信に骨の髄まで浸かった姉に、真実は、効かぬ……と。
私が起源を暴けば暴くほど、その狂いは、底まで深く沈みゆく。
ゆえに、伏せた。
確信を、胸の奥に畳んだまま。
*
言葉で、ササメの内は解けぬ。
ならば、解くべきは——
村人の、数百年にわたる崇敬。
数千の人々が、これを神と観る――その、観測の力。
それが、あれを揺るぎなき神に、編み上げている。
だが、その神聖さは、都が後から被せた、借り物の衣。
衣さえ剥げば、あとは難くない。
その手立ても――既に、仕込んでおる。
かつて屠った産女が、ただの鳥に還ったように。
あれもまた、金色姫を納めた、古き棺へ立ち戻る。
繭とは、もとより、棺の別名なのだから。
文机には、ササメがその手で縫い上げてしまった、棺が、広がっている。
起源へ、棺へ、立ち戻らせるのみ。
私は継ぎ合わせた布を、静かに畳んだ。




