【『幕間』ササメ・一六歳:泥の面】
離れの、湯殿。
私は、からくり人形のように――木石のように、ただ手を動かす。
身を切るほど冷たい井戸水を手桶で掬い、自らの身体に、浴びせ続ける。
ザァッ、ザァッ、と。
水が鎖骨を打ち、胸の谷を滑り、痩せた腹を伝って、黒ずんだ板の床へ、吸い込まれていく。
だが――どれほど水を浴びても。
身の奥底、骨の髄にまで巣食う、微熱のような疼きは、消えなかった。
数日前、お母様から賜った『お清め』の痛みが、まだ、燻っている。
肌の表に、傷は、ひとつもない。
なのに、あの鞭が擂り潰した肉の奥が、息をするだけで、軋むような声を上げる。
痛い。
ひどく、痛い。
けれど――
この痛みだけが、『ササメ』という女が、まだ此処にいる、ただ一つの証だった。
*
お母様は、私を削り取り、白繭様へ捧げるための空っぽの器に、しようとしている。
半兵衛も、私が毒と折檻に壊され、心が抜け殻になっていくと、案じてくれている。
……でも、ね。
違う、の。
削られ、溶かされ、擂り潰されるほどに。
この内に最後まで残った『澱』だけが。
黒く、濃く、煮詰まっていく。
——竹中の女に課された、夜ごとの水垢離と、清めの儀。
それは、いずれ都の上つ方へ、身も心も捧げるための、下ごしらえ。
外のお歴々は、竹中の女を、穢れを濯ぐ容れ物としか、見ていない。
己の溜め込んだ醜い欲を私たちに注ぎ込みながら、何か尊い儀式にでも与っているつもりで、いる。
……滑稽な、こと。
冷たい水の中で、自らを嗤う。
あの者らは、何も知らない。
この竹中が抱え込んでいる、底なしの闇を。
来年の夏。
私は、白繭様に喰われる。
これは、定め。
自らの行く末を悟ったその日から、私は、心を殺してきた。
泣き叫んでも、狂い乱れても、この呪われた血からは、逃れられない。
なら――自らを、律するしかない。
誰より美しく。
誰より清らかに。
誰より、竹中の女らしく。
魂に幾重もの枷をはめて、生きてきた。
それだけが、狂気の底で、この身を保つ――ただ一つの、よすが。
*
湯殿を出て、薄暗い自室の、鏡台の前に座る。
濡れた黒髪から滴る雫が、白檀の染みついた畳に、黒い点を、落としていく。
顔の雫を拭おうと、手拭いへ、手を伸ばした。
その、時。
「――だから、あたしはこう思うんです」
私の指先が、宙で、ぴたりと止まった。
廊下の、向こうから。
誰にも見つからぬよう、ひそやかに歩く――気配。
声を潜めた、二つの囁きが、近づいてくる。
「小夜。その見立ては、飛躍が過ぎる」
それに答える、静かで、ひどく落ち着いた声。
――半兵衛。
「ひしゃく? なんで、柄杓が今、出てくるんですか」
「ひやく、だ……耳に土塊でも、詰めておるのか」
「もうっ……お夜食のお芋、半分、あげませんからね」
声を殺しながらも、楽しげにじゃれ合う気配が――障子一枚隔てた闇を、ほのかな灯りとともに、通り過ぎていく。
その、あまりに、あたたかい。
あまりに、人らしい。
なんでもない、日々の、ひとかけら。
鏡に映る、その顔から――必死に取り繕っていた、巫女の面が、ふっ、と剥がれ落ちた。
*
あの、夜が、よみがえる。
折檻に腫れたこの手を、半兵衛は、冷たい手拭いでそっと包んでくれた。
その手拭いから漂った――かすかな、日向の匂い。
土と、汗と、お陽さまの匂い。
あの時、私の胸の奥で産声を上げたものが、いま――障子の向こうの笑い声に、堰を、切った。
羨ましい。
違う。
そんな、可愛らしい言葉では、到底、足らぬ。
――妬ましい。
――妬ましい。
――妬ましい。
煮溶かした膠のように、ねっとりと臓腑に絡む熱が、腹の底から、這い上がる。
腫れ上がった指の爪が、刷毛の柄に、食い込む。
皮が裂け、血が滲んでも。
この熱は、収まるどころか、止め処なく溢れ出る。
半兵衛。
愛しい、愛しい、弟。
まだ元服も迎えぬというのに――あの、恐ろしいほど冷ややかで、達観した、瞳。
狂ったこの屋敷にあって、彼だけが、一筋の光。
彼への、この想いは。
姉と弟という枠など——
とうに、超えている。
もし許されるなら。
この身のすべてを、その腕に、暴かれたい。
でも……それは金輪際、叶わぬこと。
この身は、神の器。
いずれ顔も知らぬ者らに穢され、すり減らされていく。
無垢な光に。
内から腐りかけたものを、触れさせるわけには、いかない。
触れれば、彼まで、この家の業へ、引きずり込む。
だからこそ、私は——
優しい姉の面を被り、彼を遠ざけながら、誰より近くで、血を吐く思いで、見守ってきた。
見守り、続けてきた。
なのに。
小夜は、どうだ。
竹中の本性など、何ひとつ知らぬ、あの、自由な娘は。
『あたし』と無遠慮に笑い、彼の袖を引き、その隣を、当たり前のように歩く。
私が血の滲む思いで切り捨てたものを――あの娘は、あっさりと飛び越えて。
彼に、触れる。
あの、荒れた手で。
水仕事と土いじりに灼かれ、あかぎれだらけの、無骨な手。
私の手も――荒れている。
この、鞭に打たれ、赤黒く腫れ上がった指。
同じように、傷んだ手。
なのに――半兵衛に触れることを許されているのは。
土と日向の匂いが染み付いた。
あの娘の手、だけ。
なぜ、あの子なのだろう。
なぜ、私では、ないのだろう。
私の方が、ずっと昔から、見ていたのに。
彼をお母様や源蔵から守るために、私がどれほどの地獄を、呑み込んできたと思うの。
瞳に、涙が溢れ、縁を、満たす。
けれど――決して、零れはしない。
泣くことすら、今の私には、許されぬのだから。
*
やがて、耳の奥に聞こえてくる。
おのれの内で、何かが――ずる、ずる、と這い回る、音。
あの娘の、白い喉。
そこへ、指を、かけてしまいたい。
そう、思った途端。
不意に、我に返る。
「…………」
鏡の中の自分と、目が、合った。
そこに、いたのは。
今にも人を喰らいそうな顔をした――女が、ひとり。
白繭様では、ない。
怨霊でも、ない。
これが。
これこそが――私、なのだ。
「ふ……ふふ……」
お母様は、私を壊そうとしている。
半兵衛は、私が消えていくと、哀しんでくれる。
けれど、二人とも、見誤っている。
私は、壊れてなど、いない。
削られ、潰され、煮詰められて。
この家の底で、誰より業の深い化け物として。
『出来上がって』、しまった。
*
「……駄目よ、ササメ」
濡れた肌のまま、刷毛に、白粉を含ませる。
頬へ。
ひと刷き。
――歪んだ顔が、白く、塗り潰されていく。
もう、ひと刷き。
妬みが、消える。
もう、ひと刷き。
殺意が、隠れる。
ひと刷き。ひと刷き。ひと刷き。
しゃ、しゃ、しゃ、と。
刷毛の走る音だけが、暗い部屋に、響く。
白い粉が、頬に、瞼に、唇に――降り積もる。
厚く。
もっと、厚く。
腫れた指が、軋んでも。
白粉が、塊になって、剥がれ落ちても。
顔に、塗りたくる。
あの黒いものが、一片たりとも、覗かぬように。
半兵衛に。
この醜い泥を、一目でも、見られぬように。
彼の中の私は、いつまでも――優しく、清らかな、『可哀想な姉』で、なくてはならないのだから。
やがて。
刷毛が、止まる。
鏡の中で。
真っ白な、のっぺりとした、面が、こちらを見ていた。
歪みは、もう、どこにもない。
妬みも。
殺意も。
底なしの、想いも。
何もかも、分厚い白の下に――生きたまま、塗り込められて。
その白い面が、ゆっくりと、微笑む。
「大祭の日は、もう、来年に迫っているのだから」
私は、すべてを諦めるように。
あるいは、すべてを呪うように、囁いた。
鏡の中の女が、笑っている。
一切の隙もなく。
心の揺らぎすら、覗かせず。
――それは、人の笑みでは、なかった。
白粉の下で窒息した、何かの。
塗り固めた――骸の、笑みだった。




