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【怪体新書】〜民俗学者、異世界で本物と出逢う  作者: 可和
第一章:竹中家の繭

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【『幕間』一四歳:夏草と、あたしだけが知らない顔】

一話で7千文字と、本来なら分割すべき文字数ではありますが、敢えて、分割せずに投稿させていただきました。


私の体感ですが、そこまで長く感じることなく、スッと読み切れるお話しとなっております。


 あの土蔵での恐ろしい夜から、季節は、ひと巡りした。

 

 あの日を境に、若様がササメ様とお話ししているところを、あたしは、ほとんど見ていない。

 

 神様のことも、仏様のことも、白繭様のことも。


 何もかもが、あたしの小さな頭には、重すぎた。

 

 でも、季節というのは、何があっても巡ってくるもので。

 

 春が来て、田植えが終わって、蛙の声が蝉の声に変わって――気がつけば、あたしは、一四歳になっていた。

 

 その日も、変わらない一日のはずだった。

 

 朝の水汲みと雑巾がけを済ませ、昼餉の後片付けに追われている、その最中。


 勝手場の大甕おおがめに残った煮汁を捨てようと、重たい柄杓ひしゃくを、両手で持ち上げた時だった。

 

 「小夜。今、手は空いているか」

 

 背後から、平らな声がした。

 

 あたしは飛び上がって柄杓を取り落としかけ、危うく、煮汁を自分の足にぶちまけるところだった。

 

 「わ、若様……驚かさないでくださいよぉ」

 

 「驚かしたつもりは、ないのだが」

 

 振り返ると、勝手場の入り口の柱に、肩をもたせかけるようにして、若様が立っていた。

 

 片手に、いつもの野帳(やちょう)


 もう片手に、筆と墨壺をぶら下げている。

 

 汗ひとつ、かいていない。

 

 蝉が狂ったように鳴きわめく真夏の昼下がりに、この人のまわりだけが、秋みたいに涼しかった。

 

 一四歳になった若様は、この一年で、またずいぶんと背が伸びた。

 

 肩幅も少し広がったけれど――それでも、やっぱり細い。

 

 柱に寄りかかった姿は、風が吹けば折れてしまいそうで、あたしはいつも、こっそり心配している。

 

 もっと、お芋を食べてほしい。

 

 「村の北側の、地勢を見ておきたい。付き合いなさい」

 

 「ちせい……ええと。あっ、地べたの形のことですか」

 

 「概ね、合っている。裏山の水路と、尾根筋の傾きを測る。夕餉の支度には、間に合うように戻る」

 

 また、難しい用事だ。

 

 でも、若様があたしを外の仕事に誘うなんて、とてつもなく、珍しい。

 

 いつもは薄暗い土蔵か、行灯の下の自室で、あたしには半分も分からない講釈を、延々と聞かされるばかりだから。

 

 お陽さまの下を、若様と二人きりで歩ける。

 

 ただ、それだけのことで、胸の奥がじんわり温かくなるのが、あたしは自分でも、少し可笑しい。

 

 「分かりました。すぐ片付けますから、ちょっと待っていてください」

 

 「ああ」

 

 若様は柱にもたれたまま、もう野帳を開いて、何か書き付けている。

 

 待たされることに慣れた人の、静かな立ち姿。

 

 あたしは急いで甕の煮汁を裏の溝へ流し、柄杓を洗い、前掛けを外して、土間へ駆け出した。

 

 *

 

 屋敷の裏門を抜けると、むわっとした湿り気が、全身にまとわりついた。

 

 田んぼの畦道には、夏草が膝まで伸びていて、歩くたびにバッタが、ぴょんぴょん逃げていく。


 遠くの山は濃い緑に覆われ、入道雲が、空の半分をもくもくと塞いでいた。

 

 春に次に、あたしの好きな季節。

 

 朝から蝉がやかましくて、井戸水がきんと冷たくて、裸足で土間に立つと、ひんやりして気持ちがいい。

 

 暑いのは得意じゃないけど、夏の匂いは好きだ。

 

 干し草と、土と、遠くの雷の匂い。

 

 若様は、あたしの三歩ほど前を歩いている。

 

 時折、足を止めては、水路の幅を歩いて測ったり、木の影の差す方角を確かめたりしながら、野帳に何か書き付けていた。

 

 あたしには、その字や絵図の意味は、よく分からない。

 

 でも、若様の横顔が一番生き生きするのは、こうして何かを考えている時だと知っている。

 

 切れ長の目が、少しだけ細くなって、薄い唇が、かすかに動く。

 

 頭の中で、あたしには聞こえない言葉を組み立てている顔。

 

 「おや。これはこれは」

 

 畦道の向こうから、(くわ)を担いだ庄助じいさまが歩いてきた。

 

 村一番の働き者で、あたしが四つの頃からずっと、勝手場に残り飯を持ってきてくれる、気のいいおじいさんだった人。

 

 日に焼けた顔が、あたしたちを見つけて、くしゃりと崩れる。

 

 「若様と、小夜ちゃんかい。珍しい組み合わせだねぇ。連れ立って、お出かけたぁ」

 

 「庄助殿。少々、伺いたいのだが。北の沢筋から裏尾根へ至る旧道は、今も通れるのかね」

 

 若様が、世間話の挨拶もなく、いきなり用件を切り出す。

 

 庄助じいさまは目をぱちくりさせたが、すぐに苦笑した。

 

 「はは。若様は相変わらず、気忙しいお方だ。おはようの次が、それかい。……ああ、あの道なら、去年の大雨で崩れてからは、誰も通っとらんよ。けもの道なら、残っとるかもしれんが」

 

 「崩れたのは、どのあたりか」

 

 「そうさなぁ、大岩のところを越えた先の……いやまぁ、若様。そういう山の話なら、源六げんろくのほうが詳しいぞ。あいつは炭焼きで、裏山をうろつき回っとるからなぁ」

 

 「源六。……ああ。昨年、私が『この辺りで、蛇を祀る祠を見かけたことはないか』と訊いた折、妙な顔をしていた男か」

 

 「そりゃあ、妙な顔にもなるわい」

 

 庄助じいさまが、呆れたように肩をすくめた。

 

 「若様はなぁ。会う人会う人に、蛇がどうの、祟り神がどうの、この村の仕来りがどうのと、ちぃっとばかし薄気味の悪いことばかり訊いて回るもんだから。村の連中も、怖がっとるよ。『竹中の若様は賢いが、ちと変わっとる』ってなぁ」

 

 あたしは、思わず吹き出しそうになった。

 

 若様が前々から、暇を見つけては村の中を歩き回り、あちこちで聞き込みをしていたのは知っている。

 

 若様はそれを、「採訪」と呼んでいた。

 

 でも、その中身は世間話なんかじゃない。

 

 白繭様への信心が、どれほど根深いのか。


 村の人たちが、どれくらい、この場所のおかしさに気づいているのか。

 

 ――そういうことを、一人ひとりから、探り出していたんだ。

 

 でも、村の人から見れば、それはそれは、『変わり者の若様』だろう。

 

 「それと……」

 

 庄助じいさまが、ふと、あたしの方へ、目を向けた。

 

 「おっと、こりゃあ驚いた。小夜ちゃん、いつの間に、そんな別嬪(べっぴん)さんになったもんだ」

 

 「えっ……」

 

 「いやぁ。ちっと前までは、泥んこの団子みてぇな顔しとったのに。見違えたわい。……お母さんに、よぅ似てきたなぁ」

 

 お母さん。

 

 三つの時に熱病で死んだ、母の顔を。

 

 あたしは、もう、覚えていない。

 

 覚えているのは――手のぬくもりと、髪を梳いてくれた時の、干した藁みたいな匂いだけ。

 

 「……そう、ですか。あたし、母に、似てますか」

 

 「ああ、よう似とる。あの人も、村一番の器量よしだったからのう。……なぁ若様。こんな別嬪を連れ回して、まさか逢い引きじゃ、あるまいな」

 

 庄助じいさまが、目を細めて若様を見た。

 

 若様は――地面にしゃがみ込んで、水路の石組みを指先で確かめている、ところだった。

 

 ……聞いて、いない。

 

 「ち、違いますっ。若様の、お手伝いですっ。お仕事ですっ」

 

 「はっはっはっ。赤くなっとるわい」

 

 庄助じいさまは愉快そうに笑いながら、畑の方へ去っていった。

 

 あたしは、前掛けのないことを恨めしく思いながら、熱い頬を、両手で押さえる。

 

 若様は石組みの隙間から土をかき出しながら、何事もなかったように、野帳に何か書いていた。

 

 あたしの頬が赤いのも、庄助じいさまの軽口も――きっと、耳には入っていない。

 

 いつだってそうだ。

 

 若様の目は、あたしよりも、ずっと先にあるものを見ている。

 

 *


 村の北側まで来ると、共同の洗い場に、おかみさんたちが何人かいた。

 

 布を叩く景気のいい音に混じって、笑い声が聞こえる。


 あたしの顔を見つけて、一人が手を振った。

 

 「あら、小夜ちゃん。今日はお休みかい」

 

 「いえ、若様の、お供で……」

 

 「あらまぁ。竹中の若様と、お二人で? まぁまぁまぁ」

 

 おかみさんたちの目が、餌を見つけた鵜のように光った。

 

 ……嫌な、予感がする。

 

 「ねぇ、あんた、見てごらんよ。小夜ちゃん、こんなに綺麗になって。うちの(せがれ)が、嫁に欲しいって騒いでるんだよ」

 

 「あらやだ。でも、竹中の若様が相手じゃ、あんたの倅じゃ、太刀打ちできないわねぇ。なにしろ若様は、あの御顔だもの」

 

 「そうそう。切れ長のお目々に、あのお口元。男前というより、色気があるっていうのかねぇ。女衆のあいだじゃ、評判よ。……ただ、ちぃっと痩せすぎだし、言うことが難しすぎて、何を仰ってるか半分も分からないのが、玉にきずだけどさ」

 

 あたしは、茹で蛸のような顔で、立ち尽くす。

 

 若様は、洗い場の向こうの杉を見上げ、枝の張り方から何かを測っているらしく、こっちの話など、耳に入っていない。

 

 ……いや。


 入っていないように、見せているだけ、だろうか。

 

 若様の耳は、あたしが思っているより、ずっと地獄耳だったりするのだけど。

 

 「小夜ちゃん。若様のこと、大事にしてあげなさいよ。あの人はね、頭は良すぎるけど、放っておいたら、きっと飯も食わずに、干からびちまうからね」

 

 おかみさんの一人が、笑いながらも、真面目な目で言った。

 

 あたしは、少しだけ、胸が痛んだ。

 

 あたしがずっと思っていたことを――このおかみさんは、何でもないことのように言ってのけた。

 

 「……はい。あたしが、ちゃんと、食べさせます」

 

 自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。

 

 おかみさんたちが、きょとんとして。


 それから顔を見合わせて、にやにや、笑い出す。

 

 「まぁまぁ。こりゃあ、本気だわ」

 

 あたしは、逃げるように、駆け出した。

 

 背中に、笑い声が追いかけてくる。

 

 「小夜。何を騒いでいる」

 

 若様は杉の下に立ったまま、怪訝そうな顔をしていた。

 

 「なっ……何でも、ありませんっ。行きましょう、若様っ」

 

 あたしは若様の袖を掴んで、半ば強引に、引っ張って歩き出した。

 

 *

 

 村はずれから、獣道のような細い山道に入る。

 

 若様が先に立ち、垂れ下がる枝を腕で払いながら進んでいく。

 

 あたしは、その踏み跡をたどって、足元の木の根を踏まないよう、気をつけて歩いた。

 

 蝉の声が、少し、遠くなる。

 

 代わりに、沢を流れる水の音が近づいてきた。

 

 湿った土の匂い。

 

 (こけ)むした、岩。

 

 時折、木漏れ日が落ちてきて、若様の黒髪に、光の粒が、ちらちらと散る。

 

 「若様。この道、どこまで続いてるんですか」

 

 「もう少しだ。去年の冬に、見つけた。……足元に気をつけなさい。苔で、滑る」

 

 言い終わるか終わらないか、のところで。

 

 あたしの草履が、濡れた岩の上で、ずるり、と滑った。

 

 「きゃっ」

 

 「――掴まれ」

 

 若様の手が、あたしの手首を、掴んだ。

 

 細い、指だった。

 

 でも、思いのほか――力が、強い。

 

 傾きかけた体が、ぐっと、引き戻される。

 

 「す、すみません……」

 

 「足元を見ろと言った、その口の下で滑るな。聞いていたのか」

 

 「聞いてましたよ……足が、言うことを聞かなかったんです」

 

 若様は小さくため息をついて、あたしの手首を離した。

 

 離された手首が――しばらくのあいだ、若様の指の温度を、覚えていた。


 木立を抜けた瞬間、あたしは、立ち止まった。

 

 そこは、小さな崖の上だった。

 

 足元には、苔と夏草に覆われた岩棚が張り出していて、その下に、あたしが一度も踏み入れたことのない、深い谷が広がっている。

 

 そして、その向こうに。

 

 山が、幾重にも、重なっていた。

 

 その彼方に――ぼんやりと霞んだ、広い平野が見えた。

 

 「……あの向こうに……人が、住んでるんですか」

 

 あたしの声は、自分で思っていたより、ずっと、小さかった。

 

 「ああ」

 

 若様は崖の端に腰を下ろし、野帳を、膝の上に開いた。

 

 「あの稜線を越え、北の谷筋を辿れば、二日で街道に出る。街道を西へ、五日で――京の都だ」

 

 あたしも、若様の隣に座る。

 

 足元を覗くと、はるか下に、沢の水が光っていた。

 

 怖い。

 

 でも、それ以上に――目の前の景色から、目が離せなかった。

 

 風が、吹いた。

 

 山の向こうから、あたしの知らない匂いのする、風。

 

 草と、土と、もっと遠くの、名前も知らない花の匂い。

 

 「……綺麗」

 

 口から、勝手に、こぼれた。

 

 十四年。


 あたしは、この村の中しか、知らなかった。

 

 竹中家の、勝手場と、裏庭と、土蔵と、畦道。


 それが、あたしの知っている、全部。

 

 村の外は、こんなに――広いのか。

 

 若様は野帳に目を落としたまま、筆を走らせている。

 

 何を書いているのか、あたしには分からない。

 

 でも、この場所を見つけたのは去年の冬だと、若様は言った。


 きっと、もうずっと前から、ここから逃げるための道筋を、考えていたんだと思う。

 

 あたしが夏の空を見上げているあいだにも、この人はずっと、その算段をしている。

 

 少し、黙った。

 

 風の音と、遠くの鳥の声だけが、聞こえる。

 

 「若様」

 

 「なんだ」

 

 若様は、目を上げなかった。

 

 あたしは、それでいいと思った。

 

 目を合わせていたら、きっと、言えなくなるから。

 

 「あたしのこと……連れて、いってくれますか」

 

 「当然だろう。お前がいなければ、誰が飯を炊く」

 

 思わず、笑ってしまった。

 

 ……ああ。


 やっぱり、若様は、若様だ。

 

 どうしようもなく、この人は、こういう答え方をする。

 

 「若様」

 

 「まだ、何かあるのか」

 

 あたしは、右腕の袖を、ゆっくりと、まくった。

 

 引き攣れた火傷の痕が、夏の日差しの下で、白く、鈍い光を帯びている。

 

 あたしは、その傷痕を、じっと見つめた。

 

 「この傷、前は、恥ずかしかったんです。おかみさんたちの前では、いつも袖で、隠してて」

 

 若様の筆が、止まる気配がした。

 

 「でも、最近、思うんです。この傷があるから、あたしは、ここにいられたんだって。……若様がこの傷をくれたから、あたしは、篝火様にも、お差配様にも、奪われなかった」

 

 風が吹いて、髪が、頬にかかる。

 

 耳の後ろへ押さえながら、あたしは、遠くの山を見つめた。

 

 言葉を、選んでいるわけじゃない。

 

 選ぶほどの言葉を、あたしは、持っていない。だから――思ったままを、そのまま、口にした。

 

 「あたしは、若様のものです。それが嫌だなんて、一度も、思ったことがありません。……この傷が、あたしの、居場所です」

 

 しばらく、何の音も、しなかった。

 

 蝉の声すら、遠くなった気がした。

 

 若様が、ようやく、顔を上げる。

 

 あたしの右腕の傷痕を、見ている。

 

 あの日――八歳のあたしの腕を、灼けた鉄箸で焼き貫いた、あの日と同じ。


 深くて、冷たくて、けれどどこか苦しそうな光が、その切れ長の目に浮かんでいた。

 

 「小夜」

 

 「はい」

 

 「……あれはな。お前を救うために取れた、ただ一つの手であった。だが――傷をつけたことを、私は一度たりとも、正しいとは、思うておらぬ」


 「……」

 

 あたしは、心の中だけで、呟く。

 

 あなたはいつも、そうやって、理屈で自分を責める。

 

 「若様がどう思っていても。あたしにとっては、変わりません」

 

 あたしは、笑った。

 

 精一杯、明るく。


 若様を、不安にさせたくなかった。

 

 「だから――どこへでも、お供します。京でも、地獄の底でも」

 

 若様は、黙っている。

 

 野帳は、もう、閉じていた。

 

 その横顔が夕日を受けて、あたしの知らない表情をしていた。

 

 苦しそうでも、冷たくもない。

 

 ――不器用で、静かな顔。

 

 「……地獄は、暑いぞ」

 

 若様が、ぽつりと言った。

 

 「えっ」

 

 「お前は、暑いのが苦手だろう。地獄へ落ちれば――火焔(かえん)地獄が、待っておる」

 

 「じゃあ、涼しい地獄に、してください」

 

 「……そんなものは、ない」

 

 「じゃあ、若様が作ってください。若様なら、何でも作れますっ」

 

 若様が、ほんの一瞬、目を瞬いた。

 

 それから、呆れたようにため息をつきながら――口の端が、ほんの少し、ほんの少しだけ、上がっていた。

 

 笑った、とは言えないほどの変化。

 

 でも、あたしには、それで十分だった。

 

 *

 

 帰り道、日が、傾き始めていた。

 

 影が長く伸びて、畦道の夏草が、橙色に染まっている。

 

 若様は、三歩、先を歩いている。

 

 いつもと、同じ距離。

 

 いつもと、同じ、細い背中。

 

 野帳はもう懐にしまっていて、珍しく、何も書いていない。


 ただ、黙って歩いている。

 

 あたしは、その背中を見ながら、思った。

 

 もっと、食べてほしい。

 

 あたしがもっとうまい飯を炊けるようになったら、少しは、肉がつくだろうか。

 

 明日の朝は、芋粥にしよう。


 庄助じいさまに頂いた里芋が、まだ残っている。

 

 ――ふと。

 

 若様の首筋に、一匹の蚊がとまっているのが、見えた。

 

 あたしの、右手が、動く。

 

 考えるよりも、先に。

 

 体が勝手に前へ出て、指先が、一直線に、伸びる。

 

 若様の首筋に触れる、寸前。

 

 指が――ぴたり、と止まった。

 

 蚊は、あたしの指の起こした風だけで、ふわり、と飛び去る。

 

 若様の肌には、触れていない。

 

 あたしの指先は、若様の首筋から、髪一本ほどの隔たりで――静かに、止まっていた。

 

 「……どうした」

 

 「あ……蚊が、いたので」

 

 「そうか」

 

 若様は、振り返りもしなかった。

 

 あたしは、何事もなかったように、手を引く。

 

 ……自分でも、少し、驚いていた。

 

 今の、動き。

 

 まるで、誰かに教わったような――速くて、狂いのない、動き。

 

 勝手場で包丁を握る時の手つきとも、違う。


 もっと冷たくて、もっと鋭い、何か、別のもの。

 

 でも。

 

 その感覚は、ほんの一瞬で、過ぎ去った。

 

 夕餉の煙が、あちこちの家の屋根から、立ち上り始めている。

 

 蛙が、鳴き始めた。

 

 「若様。急ぎましょう。お芋が、焦げちゃいます」

 

 「今日も、芋か」

 

 「はい。お芋は、神様です」

 

 「……わけが、分からん」

 

 小走りで、若様の横に並ぶ。

 

 夕日が、田んぼの水面を、赤く染めている。

 

 若様の横顔を、ちらりと、盗み見た。

 

 夕日を受けたその顔は、おかみさんたちが言っていた「色気がある」というのとは、少し違う、とあたしは思う。

 

 確かに、顔は、整っている。

 

 でも、あたしが好きなのは、そういうところじゃない。

 

 何か途方もなく大きなものを背負って、でも、絶対にそれを、誰にも預けない。

 

 ひとりで全部抱えて、ひとりで歩く。


 その、馬鹿みたいに不器用で、馬鹿みたいに真っ直ぐな、生き方が。

 

 ――好きだなんて、口には、出さない。

 

 若様の隣を歩ける。


 それだけで、いい。

 

 明日も、明後日も、その先も、ずっと。

 

 あたしは、若様に気づかれないように、こっそりと、右腕の傷に触れた。

 

 夏の陽に温められた傷痕は――さっき、若様に手首を掴まれた時の、指の温かさに。


 少しだけ、似ていた。

 

 ――この夕焼けを、あたしは多分、ずっと、覚えている。



本日もお読みいただき、ありがとうございました。


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