【一四歳:朱い糸】
あの梅雨の夜から――一年が、経っていた。
あの日以来、私とササメが言葉を交わすことは、ほとんど、なくなった。
来夏、ササメが一七を迎える頃。
竹中家の娘が、その身と魂のことごとくを、白繭へ――そしてその裏で、都の上つ方へと捧げる儀式。
『白繭大祭』が、刻一刻と、迫っていた。
*
暦が大暑を告げた、夜のこと。
陽が落ちてなお、煮詰めたような熱が屋敷の底に澱み、一向に引く気配がない。
息の詰まる夜気の中、私はひとり、汗ばむ手で、書きかけの絵図と向かい合っていた。
裏山の、地形。
村の、道筋。
街道までの、隔たり。
そのすべてが、来夏に向けて、少しずつ、組み上がりつつある。
その時。
廊下の奥から、鋭い叱責と――何か重く鈍いもので、肉を打つ音が、響いた。
私は咄嗟に絵図を放り出し、自室を飛び出した。
音は、常は固く閉ざされている、奥座敷から漏れている。
廊下の角を曲がった先――重い襖の前で、小夜が泣きながら、厳蔵の腰に、しがみついていた。
「離してっ……。ササメ様が、壊れちゃうっ」
厳蔵の太い腕に爪を立て、必死で、振りほどこうとしている。
「ならぬ。奥方様の神事の最中ぞ。奉公人が、差し出口をいたすな」
厳蔵は痛みも感じぬのか、木柱のごとく微動だにせず、ただ冷ややかに小夜を払いのけていた。
その隙に脇をすり抜け、私は襖を引き開け、中へ滑り込む。
むせ返るほどに濃い、線香と、伽羅の香。
薄暗い和蝋燭の灯の中、篝火が、無表情のまま、腕を高々と振り上げていた。
その手に握られているのは――白絹を、固く縒り合わせた、鞭。
足元には、薄い白装束のササメが、蹲り、小さく、震えている。
「母上っ。何を、しておられるっ」
ササメの前へ割って入り、両手を広げた――その刹那。
空を裂いて振り下ろされた白絹が、私の左肩を――骨ごと、打ち据えた。
「ぐっ……」
肌は、切れぬ。
だが、打たれて分かった——布に、幾重にも水を含ませている。
絹布越しに伝わる鈍い重みが、肉の芯を擂り潰すように、痺れる痛みとなって、奥の奥まで響いた。
肌を裂かず、内だけを砕く。
――そういう、鞭か。
「退きなさい、半兵衛」
篝火の声は、怒りに震えているわけでは、なかった。
ただ、定めた段取りに狂いが生じた――とでもいうような、どこまでも、淡々とした声。
「お断り……する。母上、その鞭を、下ろしなさい。……母上のなさりようは、それ自体が――大いなる矛盾を、孕んでおる」
いままさに振り下ろされんとする鞭を、私は、睨み据えた。
「なるほど。その鞭で、肌が裂けることはない。――だが、これほどの責め苦は、姉上の内なる気を乱し、その身に宿る『神聖な芳香』を、必ずや濁らせよう。来夏の大祭、至高の器として上つ方へ差し出すべき、その身に――母上は今、自ら、瑕をつけておられる」
肩を押さえたまま睨み返すと、篝火は和蝋燭に照らされた祭壇を、顎で、しゃくった。
そこには、極上の白絹に、見事な鳳凰を刺した布が、一枚、広げられている。
素人目にも、思わず息を呑むほどの出来であった。
だが篝火は、一瞥し――吐き捨てる。
「ご覧なさい。あの鳳凰の、右の翼。その、一番端の一枚――羽の角度が、私の命じた図柄から、一分ばかり、ずれております。それに、糸の色。命じたのは『朱』。なれど、ほんのわずかに――暗い。白繭様へ捧げる器に、かような濁りを混ぜるなど。断じて、許されません」
「……たった、それしきのことで。灯りもろくにない、闇の中の、わずかな色の違いごときでっ……」
「ササメは、竹中家の、次期当主。来夏の大祭で至高の器となるには、一片の濁りも、あってはならぬのです」
白絹の鞭を、おのれの掌に、ぴた、ぴた、と当てながら、篝火は言い放った。
「目には見えぬ、骨の髄にまで、刻みつけるのです。わずかの我も残らぬよう――内から砕き、作り変えねば、なりません」
これが。
こんなものが、神事の修行だというのか。
「申し訳、ありません……申し訳、ありません……」
私の背後で、ササメが、壊れた人形のように、虚ろな瞳のまま、同じ言葉を繰り返す。
その身が、小刻みに震えていた。
「お母様……ごめんなさい。私が、私が、悪いのです。悪い子だから……心が、あるから……。どうか、もっと、この内を、清めてくださいませ……」
そして、庇う私を弱々しく押しのけ、自ら篝火の前へ、腫れ上がった両手を差し出した。
その瞳に――抗う色は、微塵もなかった。
「姉上、おやめなさい……もう、十分だ」
「――退きっ」
再び、白絹が、振り下ろされる。
骨の軋む、鈍い音。
ササメの華奢な身が、びくり、と跳ねた。
堪らず、私はその前へ、己の身を投げ出す。
胸を打たれ、肺の息が、ことごとく、押し出された。
遅れて襲い来る鈍痛に、顔が、歪む。
――私の蓄えた知識など。
この座敷で振るわれる剥き出しの暴力の前では、何ひとつ、役には立たぬ。
その無力に、私はただ、耐えるほかなかった。
*
夜更け。
篝火が足音もなく去ってから、どれほどの刻が過ぎたか。
底知れぬ静寂だけが、暗い廊下に降りていた。
小夜が泣きながら汲んできてくれた井戸水と手拭いを手桶に提げ、私は、奥座敷の前に蹲るササメのそばへ、膝をつく。
立ち込める線香の匂いが、逃げ場のない檻のごとく、廊下に満ちていた。
ササメは、腫れ上がった両の手を――まるで、他人の拵え物でも眺めるように、ぼんやりと、見つめている。
肌は破れずとも――その奥は、無残に、砕かれていた。
「……姉上。冷やそう」
「あら、半兵衛。……ごめんなさいね、夜中に、大きな声を出してしまって」
冷たい水を含ませた手拭いを、そっと、その手に当てる。
すると、姉は――にこやかに、笑った。
いかなる怪異に対した時よりも深い悪寒が、背を、駆け抜けた。
あれほどの責め苦を受けた、直後だというのに。
まるで、結構なお清めを賜った――とでも、いうように。
心の底から、穏やかに。
「痛く……ないのか」
「痛いわ。指の骨の奥が、じんじんと、燃えているみたい。……でもね、痛いのは。私が、まだ生きている証でしょう」
その言葉の底に潜むものに――私は、またしても、返す言葉を、持たなかった。
腫れ上がった手を、そのまま私の頬へ、そっと、伸ばす。
焼けるように、熱い、掌。
「私はね……なにも、持っていては、いけないのよ」
「…………」
私は、言葉の代わりに、その熱く腫れた手を、両手で、きつく握りしめた。
――篝火が、いかに偽りの信心を植えつけ、姉から我を削ぎ取ろうとも。
この呪いは、私がこの手で、解体してみせる。
その支度は、もう間もなく、整う。
だが、ササメは。
熱に浮かされたように、ただ、呟き続けていた。
「……刺繍、直さなきゃ。朱い、糸。お母様が、喜んでくださる――もっと、完璧な、朱い糸で……」
私の手から、姉の手が――そっと、離れた。
定まらぬ目で虚空を見つめ、何もない宙に、針を運ぶ仕草を、繰り返す。
赤黒く腫れ上がった指先が、ありもせぬ絹糸を摘まみ、寸分の狂いもなく刺繍を縫い上げようと、宙を、ひくひくと這う。
その姿を前に――私は、指の先から血が滲むほど、虚空を、握り潰していた。
来年の、大祭前夜。
すべての見張りの目と、村人たちの狂気とが、本祭のただ一点へと注がれる、その夜こそが――。
この村の因習を根こそぎ解体し、ササメを、あの繭から救い出す。
最初にして、最後の――機。
失敗は、決して、許されぬ。




