【『幕間』一三歳:蜘蛛の糸】〜不穏〜
誰も、一言も話さなかった。
若様は、床を見つめている。
時折、その肩が、ちいさく震えていた。
ササメ様は、天窓を見上げていた。
雨上がりの光が、その頬を白く照らしている。
あたしは、座ったまま動けずにいた。
――一年前の、あの鳥の化け物の夜を思い出す。
あのとき、若様の言葉は、化け物を鎖のように縛り上げて、一匹の病気の鳥に変えてしまった。
変えた――違う。
若様は、あの鳥が化け物の正体だって言っていたんだった。
言葉が、化け物の皮を剥いだ。
けれど今。
その言葉が、ササメ様には届かない。
……ううん。
届いていないわけじゃない。
ササメ様は、ちゃんと聞いていた。
聞いて、受け止めて――でも。
その受け止め方が、なんだか――あべこべ、だった。
どこがどう、とは言えないけど。
身体が、ぶるっと、震えた。
*
気づけば、あたしは土蔵の壁を見つめていた。
どこか、目を逃がす先が欲しかった。
天窓から差す朝の光が、壁にかかった布を照らしている。
竹中家の家紋――『雪輪に笹』。
丸い雪の輪のなかで、六枚の笹の葉が網のように広がる、その形。
ぼんやりと、それを見つめる。
――あれは蚕の家紋。
若様はそう言った。
蚕は糸を吐く。
だから、竹中家は白繭様と共にある。
――けれど。
あたしは農家の娘だ。
お蚕様なら、ちいさい頃から何度だって見てきた。
口から吐いた糸で自分のからだを、まあるく包む。
隙間ひとつない、真っ白な繭になる。
網なんか、張らない。
「……あれ、蚕じゃ、ない」
ぽつり、と。
あたしの口から、勝手に言葉が漏れた。
「――小夜」
若様が顔を上げた。
まっすぐに、あたしを見る。
その目が少し怖くて。
あたしは、それきり、口をつぐんだ。
焼けただれた右腕の傷あとが――じくり、と、疼いた。
*
「……さ、さあ、若様っ」
あたしは、わざと大きな声を出した。
胸の奥にへばりついた嫌なものを振り払うように。
うつむいたままの若様を、この重たい静けさから引き剥がすように。
「難しい講釈は、そこまでですよ」
「……」
「もう、朝のお勤めに行かないと。台所でお芋もふかさなきゃ」
若様が、毒気を抜かれたように、あたしを見る。
それから、呆れたように大きく息を吐いた。
「……まったく。この村の絡繰りを説いた、その口の下から芋の話とは」
「へへっ。腹が減っては、戦はできませんから」
あたしは、ニカッと、笑ってみせた。
若様は、首を振って、立ち上がった。
ササメ様も、ゆっくりと、静かに、腰を上げる。
*
土蔵を出ると、日はもう屋根の高さまで昇っていた。
雨上がりの空気は澄んでいて、遠くの山が、いつもより近くに見える。
二人の後ろを歩きながら、あたしは、胸の奥をかき混ぜる不安を何度も振り払おうとした。
だけど、だめだった。
若様の講釈は、あの行灯の明かりに似ている。
ひとつ灯れば、明るくなる。
けれど、明るくなったぶんだけ――そのまわりの闇の深さがわかってしまう。
このお屋敷の闇は、あたしが思うより、ずっと、ずっと、深い気がする。
ふと、雨に濡れた土の匂いが鼻先をかすめた。
「小夜、何をしている。遅れるぞ」
「は、はいっ」
慌てて、若様の後を追いかける。
渡り廊下の雨戸を、一枚、一枚、見上げながら。
――お屋敷のまんなかには奥座敷があって。
奥座敷には、白繭様がいる。
その周りを、渡り廊下が、ぐるぐると、ぐるぐると、巡っている。
それはまるで。
蜘蛛の巣みたいだ。
あたしは、思わず足を止める。
違う。
そんなはずない。
……けれど。
背中の向こうで――お屋敷のまんなかで。
奥座敷が、じっと、息を潜めている気配がした。
何かを――待ち伏せているように。




