【「幕間」十三歳:蜘蛛の糸】 〜信仰〜
「白繭様……」
ササメ様が、ぽつりと呟いた。
村人たちが一年に一度、遠くから拝むだけの。
近づくことすら許されない神様。
若様は、淡々と口を開いた。
「幼い頃は、家紋の網目から、もっと悍ましき――喰らう者を思い描いたものだが。私が四つの折、あの奥座敷で繭にじかに触れ、蛾の態と見極めた。あの時から、あれは、恐るるに足らぬものとなった」
――四つ。
あたしが初めて、このお屋敷に連れてこられた齢だ。
それと同じ齢で、もう、若様は。
あの奥の暗いお部屋で、白繭様に、手を伸ばしていたんだ。
「私の見立てでは――あれは神でも何でもない。ただの蚕が常ならざる姿に育ち、この土地にのみ巣食うた地の妖……いや。妖と呼ぶも烏滸がましい代物よ」
神様をそこまで言うなんて。
あたしは声も出せずに、首をすくめた。
――と。
向かいから、音が消えた。
衣擦れも、息遣いも、何もかも。
たった今まで、確かにそこにあった、ひとの気配が。
こわごわ、顔を上げる。
ササメ様のお顔からも、何かが、すうっと、抜け落ちていた。
「幕府の、公家の、上つ方が。己らの穢れを捨てるためだけの塵穴として、あの蚕の化け物を飼っているに過ぎぬ。地の信心と、上つ方の欲とが絡まり合い、淀んだ――その、成れの果て」
その声は、とても、冷たい。
「姉上。あなたが拝んでおいでの『白繭様』は。その穢れの溜まり場の、一番奥に巣食う、心の臓に過ぎぬ。この村に埋め込まれた、ただの――絡繰りだ」
若様の、切れ長の目が。
まっすぐに、ササメ様へ向けられている。
「力を持った神などではない。所詮は、鄙の習わし。あのような蚕の化け物――私が必ず、解体してみせる」
からくり。蚕。
その言葉を、すがりつくように胸の内で繰り返した。
神様じゃ、ない。
ただの、虫。
「だから、姉上が生贄に立つ謂れなど。どこにもないのだよ」
若様が退治できるもの。
だから、もう大丈夫。
あたしは、そっと、ササメ様のお顔を覗く。
――微笑んで、いた。
能面のように抜け落ちていたお顔が、今度は、お雛様みたいに美しく。
そして、どうしてだか、ひどく哀しそうに。
「……半兵衛は、本当に優しいのね」
静かな、声。
「でもね。違うの」
その声に合わせるかのように、行灯の炎が、ゆらり、と揺れた。
「白繭様はね、そのようなものじゃないのよ。もっと、ずっと、大きくて。恐ろしくて。……そして、とっても愛おしい神様なの」
あたしは、自分の耳を疑った。
いとおしい、と。
ササメ様は、いま、そう仰った……?
若様の息を呑む音が、はっきりと耳に届く。
「……姉上。それは違う。あなたは、夜ごと母上に盛られている、あの薬に心を曇らされて――」
「――お薬」
ササメ様は、若様の言葉を遮って。
子守唄でも口ずさむように、その言葉を繰り返した。
「私が苦しい時にね。お母様が、この身に与えてくださるのよ」
うっとりと、目を細めている。
あたしは、その夢見るような横顔から――奥の間から出てこられる、毎朝のササメ様を思い出していた。
板の間に額を擦りつけるようにして、這ってこられる、あのお姿を。
お薬をいただいているはずなのに。
どうして、ササメ様はあんなにも――。
「姉上」
若様の声が、張り詰めた。
「あれは……薬ではない。毒だ。あなたの心を壊すための。……そして、母上がこれまで施してこられた仕付けの数々も。姉上から、御自身を削り取り、その洞へ信心を流し込むための――仕込みに他ならぬ」
若様の、深く、深く、息を吸う音がした。
「その信心はな、姉上。あなたのものではない。母上が、都の連中が、長い長い年月をかけて、竹中ササメという器に打ち込み続けた――鋳型だ」
いがた。
あたしや村の皆の胸に、知らないうちに、固く、はめられていたもの。
それが今、ササメ様に向けられている。
「姉上が、まことの心と思うておられるものは。植え付けられた紛い物なのだよ」
ひとつ、ひとつ、言葉を選ぶような、ゆっくりとした声。
けれど、その声は、わずかに震えていた。
――なにかに追い立てられているようにも、聞こえた。
ササメ様は、何も言わなかった。
ただ、じっと、若様を見つめている。
怒るでもなく。
哀しむでもなく。
まるで、聞き分けのない幼い弟を慈しむような優しい目で。
「半兵衛」
「……」
「あなたは、私が夜にお仕込みを受けている間も、起きていてくれるのね」
若様の息遣いが、一瞬、止んだ。
「雨戸の向こうで、足音を立てずに、じっと、こちらを向いていてくださるでしょう。私ね、知っているのよ」
ササメ様が、そっと、瞼を閉じた。
長い睫毛の先が、行灯の明かりを受けて、ふるり、と震える。
「お母様が奥座敷から下がられた後。小夜が私の手を握ってくれる前の――あの、一番暗い時。……私ね、雨戸の向こうの、あなたの気配だけを、頼りにしているの」
ゆっくりと開かれた瞳が、若様に向けられる。
「それが、私の、本当の信心」
若様の喉が、ひくり、と動いた。
「それでも――姉上」
若様は、何度か、唇を動かして。
けれど、それが声になることは、なかった。
やがて、ゆっくりと。
その目が、床の墨――叩き壊された村の絵の上へと、落ちていく。
唇は、きつく結ばれていた。
「ねえ、小夜」
ふいに、甘い声が、あたしを呼んだ。
「あなたの手は、いつも、温かいわね」
どうしてだろう。
胸が、苦しい。
「私の手を握ってくれる、あの温かい手。……あの手が、私の、もう一つの信心。あなたの、土と日向の匂いが、私を生かしてくれているのよ」
ササメ様は、にっこりと、微笑んだ。
「だからね、小夜。私が白繭様のもとへ参った後も――ずっと、そばに、いて」
――ずっと、そばに。
『参った後も、ずっと、そばに』。
その言葉の形が、なんだか、変だった。
優しいはずのお言葉なのに。
微笑んだ、その瞳の奥から――
細くて冷たい指が、一本、すう、と伸びてきて。
あたしの喉の奥に、じわり、と差し込まれた。
……そんな気がして。
あたしは、頷くこともできなかった。




