【『幕間』一三歳:蜘蛛の糸】〜鋳型〜
雨の音が、止んでいた。
何日も、何日も、屋根を打ち続けていた、あの長雨が。
あたしは布団の中で、そっと目を開ける。
固く閉ざした雨戸の、わずかな隙間。
そこから、細く青白い光が一筋。
……星明かりだ。
久しぶりに見るその澄んだ光に、胸が、とくん、と鳴った。
――今日だ。
枕元には、小さな紙きれ。
昨日の夕暮れ、廊下ですれ違いざまに、若様が、そっと握らせてくれたもの。
『明日の明け七つ半。土蔵へ』
ただ、それだけの、短い文字。
けれど、あの土蔵の朝から、若様の最後の言葉が、ずっと、あたしの胸の底で響き続けていた。
『最後の、講釈を打つ』
あの明け方。
夜の神様だったものが、朝日を浴びて跡形もなく消えた。
その、本当のわけ。
お芋を洗いながらも、廊下を拭きながらも、あたしは、ずっと、ずっと、そればかり考えていた。
けれど、あたしの頭では、どれだけ考えても、答えには届かなかった。
今日、それがわかる。
布団から這い出して、まだ強張る指で、手早く身支度を整える。
冷たい朝の気が、肌を刺した。
あたしは、ぶるりと身を震わせて、ぐっと、唇を結ぶ。
――行こう。
*
真っ暗な渡り廊下を、若様の後について歩く。
夜の神に怯えた、あの道。
けれど――雨戸の外は、嘘のように静まり返っていた。
――ズリ、ズズ。
時折、思い出したように小さな音がする。
ただ、それきり。
「若様。今日は……夜の神様が少ないんですね」
「雨で、流された」
若様は、短く答えた。
「あの穢れは雨に弱い。降っているあいだは、屋敷の外の溝へ流れ落ちて、散っていく」
「……流れて、どこへ行くんですか」
なんの気なしに、あたしは尋ねた。
その時。
若様の足が、ほんの一瞬、止まった。
「――良い問いだ、小夜」
低い声でそう言って、また、歩き出す。
「それも、この講釈で……自ずと、知れよう」
その後ろ姿を、じっと見つめる。
しばらく黙って歩いた後。
前を行く背中が、ぽつり、と。
「……姉上の、お加減が――」
あたしは、はっと、顔を上げる。
けれど、若様はそれきり、口を閉ざした。
*
重い土蔵の扉を開けると、ササメ様は、もう中に座っていた。
あの日と同じ、木箱の前で。
あの日と同じ、姿で。
「姉上」
若様の眉が、寄る。
「大丈夫よ、半兵衛」
透き通るような声だった。
でも――その頬は、行灯の炎を透かしてしまいそうなほどに白い。
「今日はね。どうしても、お話が……聞きたかったの」
若様は、しばらくササメ様を見つめていた。
何かを言いかけて。
唇が一度、わずかに動いて。
ただ、その言葉が声になることは、なかった。
やがて、若様は、あたしの方を振り返る。
「小夜」
「は、はい」
「今宵、話すのは――あの夜、化け物が朝日で消えた、その本当のわけ。そして、もう一つ」
膝をつき、新しい墨に、指を浸す。
床に、丸を、描きはじめた。
あの夜の、渦巻きとは違っていた。
小さな丸が、ひとつ、またひとつ。
やがて、いくつもの丸が寄り集まって——村のような形になっていく。
その絵を、行灯の炎が、赤く照らした。
「――始めよう」
*
「あの夜、夜の神だったものは朝日で消えた」
若様は、小枝の先で描いた丸の一つを叩いた。
「だが――日の光が、怪異を祓ったのではない。答えは、もっと単純で、もっと……恐ろしい」
ふと、若様と目が合う。
「小夜。考えてみよ。夜が明けると、この村では、何が起こる」
「え、ええと……」
慌てて、頭を巡らせる。
「村の、みんなが……目を、覚まします」
「そう。目を覚まして、何をする」
「ええと……お勤めの、支度を……」
「支度をしながら、何を思う」
あたしは、わからなくなって、首をかしげる。
若様は、短く息を吐いた。
「朝が来たと思うのだ。――夜が、明けたと。もう夜の神はいないと」
「……あ」
「畑へ出る小作人。竈に火を入れる女中。むずかる乳飲み子をあやす母親。――この村の何もかもが、朝の訪れと共に一つのことを思う。『夜の神は去った』と」
小枝で描いた丸を、ひとつ、ひとつ、叩いていく。
「その、束ねられた幾百の思いが――目には見えぬ蛆のごとく、あの汚泥に群がり喰らい尽くす。人の思いが怪異をかたちにし、そしてまた、それを消し去る」
「村の……みんなが……」
「左様。村の者たち自身が、毎朝、夜の神を葬っている。――己が何をしているのかも、知らぬままに」
どくり、と、心の臓が嫌な音を立てた。
毎朝。
目を覚まして、あたしも思っている。
――ああ、朝が来た。
もう夜の神様はいない。
あれが。
なんでもない毎朝の当たり前が。
あの黒くて苦しみもがいていたものを、すり潰していた。
知らずに。
あたしも、その中の一人として。
「ねえ、半兵衛」
「村の皆が、まだ眠っているあいだ。――夜の神様は、どうして消えないのかしら」
「姉上、眠っている者の心は働きに加わらぬ。夢の中にある者は――」
そう答えかけて。
若様は、口を閉ざした。
小枝の先が、ぴたりと止まる。
……どうしたのだろう。
いつも、水が流れるように語る若様が。
「……いや。今の言いようは正しくなかった。姉上の問いは、私の説きの甘さを突いておられる」
若様は、床の丸の一つを、小枝の先でゆっくりと、輪をなぞるように辿りはじめる。
「眠っているから、消えぬのではない。――眠っていようと、起きていようと、関わりはないのだ」
眠っていても、起きていても、関わりがない。
どういう、ことだろう。
「――小夜。村の鋳物師が、溶かした鉄を型に流し込んで、同じ形の鋤先を、幾つも拵えるのを見たことは」
急に水を向けられて、あたしは、どぎまぎした。
「ええと……ないです」
真っ赤に溶けた鉄。
それくらいしか、思い浮かばない。
「あれはな、型さえ確かであれば鋳物師がその場に居ようと、居るまいと。流し込めば、寸分違わぬものがいくつでも出来上がる」
小枝が床の墨の線を、つう、となぞった。
「この村では、気の遠くなるほどの歳月をかけて――『夜の神は夜にのみ現れ、朝には消える』という、ただ一つの思いが。村人の胸の奥底に、石のごとく固まっている」
小枝の先が、その丸を、こつ、と突いた。
「――鋳型のように、な」
「……いがた」
聞き慣れないその言葉を、口の中でそっと転がしてみる。
鉄を流し込む、あの型。
同じ形のものを、いくつも、いくつも、こしらえる――そういう型が。
村の人たちの胸に、はまっている。
みんなが、同じことを思うように。
同じ形に、はまったまま。
そこまでは、なんとか、あたしの頭でもわかった。
けれど、その先が――どうしても、思い描けない。
考えるほどに足元が、ぐらりと覚束なくなる。
「あの汚泥の化け物は、自ら這うているのではない。鋳型に這わされている。自ら消えるのでもない。鋳型に消されている」
若様はそこで、一度、息を吸った。
「――そして。鋳型は、ひとりでに、固まりはせぬ」
描いた丸の一つ一つを、若様は、何も言わずに叩いていく。
ぽん。
ぽん。
ぽん。
その音だけが、暗い土蔵に響く。
やがて、絞り出すような声がした。
「――これほど、綻び一つない鋳型を」
「若様……」
「誰が、打ち込んだ」
――小枝を持つ手が、止まった。
「何百年もかけ。村人の胸の、その奥のひだの一番細い一本にまで。寸分の狂いもなく、『夜の神は夜に這い、朝に消える』という、たった一つの掟を……打ち込み続けた者がいる」
若様が、ゆっくりと、顔を上げる。
行灯の灯にあぶり出された、その目を見て――
あたしは、動けなくなった。
あの夜、ひとり言を漏らした時と同じ。
何事にも動じぬはずの若様。
その目の奥に。
――怯えが、あった。
「都におる――上つ方の、連中なのか」
「奴らは、この世の絡繰りを何もかも呑み込んだ上で、何百年もかけ、この村に『夜の神』という鋳型を、打ち込み続けてきた……」
若様は描いた丸を。
小枝で、ぐしゃり、と、叩き壊した。
――飛び散る、墨。
「……己らの穢れを捨てて寄越す、そのためだけに」
穢れを捨てる。
その言葉で、あたしの頭に浮かんだものがあった。
厠だ。
お屋敷の奥の、厠。
あたしたち下働きが毎日汲み取って、村の外まで運んでいく、あの臭い桶。
まさか……この村がまるごと――
そこまで思い至った途端、腕に、ぶつぶつと鳥肌が立った。
「村の者たちは、知らぬ。己が、何を担わされているのかを。母上も、知らぬ。己が、その担い手の――頭に仕立て上げられていることを。誰も、何も知らぬまま。毎朝、毎朝。何百年も。汚物の流れを絶やさぬよう守り続けてきた」
毎朝。
あたしが雑巾を絞って拭いている、あの渡り廊下。
あれが、汚物を流す水路だと、若様は前に言った。
なら――あたしも。
あたしも、知らないうちに。
誰かの厠を、せっせと磨いていたのか。
握りしめた手のひらに、じっとりと汗がにじむ。
若様の目が、ササメ様へと向けられた。
じっと。
逸らすことなく。
「姉上」
「なにかしら、半兵衛」
「今宵の本題を話す。――それは」
行灯の灯が、ぶわり、と、膨れ上がった。
その炎に、横顔を赤く染めて、若様は言った。
「この竹中家の奥に鎮座する、『白繭様』の――その、まことの姿だ」




