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【怪体新書】〜民俗学者、異世界で本物と出逢う  作者: 可和
第一章:竹中家の繭

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【一三歳:泥の中の微笑みと老いた魂の春】〜快楽〜

 夜更け。

 

 雨は、降り続いている。

 

 分厚い雨戸に閉ざされた屋敷は、絶え間ない雨音のほか、物音一つなく静まり返っていた。

 

 私は自室で、行灯の火を頼りに、書きかけの怪異解体新書の草案を練っていた。


 だが、筆が一向に進まぬ。


 思考の妨げとなっているのは、今朝、あの土蔵で目にした光景。

 

 あの汚泥を前にして、ササメが浮かべた、微笑み。

 

 恐怖の欠片もない、凪いだ水面(みなも)のような表情。


 あれが何を意味するのか――考えるほどに、胸の底が冷えていく。

 

 墨の乾きかけた筆を置き、額に手を当てる。

 

 この竹中家が、外界の権力者たちの穢れを引き受けるための隠娼の館であることは、とうに理解している。

 

 だが、夜な夜な奥座敷で行われているという神事の修行が、いかなる手段によってか、一五になる娘の正気そのものを内側から蝕む段階にまで至っているとしたら。

 

 軒を打つ雨音が、やけに耳につく。

 

 ――ドンッ、と。

 

 その雨音を裂いて、廊下の奥で不自然な物音がした。

 

 誰かが倒れ込んだような、鈍く、重たい音。

 

 続いて、陶器が板張りの床を転がる、乾いた音が響いた。

 

 「……誰だ」

 

 私は筆を置き、音を殺して、襖を開けた。

 

 廊下の暗闇の中、母屋から続く勝手場の前で、白い影がうずくまっている。

 

 その周りには、膳がひっくり返り、汁椀からこぼれた味噌汁が、黒い板張りの床に染みを広げていた。


 「……姉上、か」

 

 「……あ、半兵衛……」

 

 ササメは、床に這いつくばったまま、緩慢な動作で私を見上げる。

 

 その顔色は和紙のように白く、額には、異常な量の脂汗が滲んでいた。

 

 焦点が、合っていない。

 

 瞳孔は、薄暗い廊下だというのに、猫のように大きく開ききっていた。

 

 「姉上っ。どうされたっ」

 

 駆け寄り、その華奢な体を、抱き起こそうとする。

 

 その途端、強烈な甘い匂いが鼻腔を突いた。

 

 以前から彼女が纏っていた、あの練香の匂い。

 

 だが、今宵のそれは尋常ではなかった。


 むせ返るほどに濃く、果実と、得体の知れぬ薬種を煮詰めたような――嗅ぐだけで頭の奥が痺れるほどの甘さ。

 

 「ごめんなさい……私ったら、そそっかしいわね……」

 

 へらり、と、力なく笑う。

 

 仮面のように張りついた、生気のない笑み。

 

 「何もないところで、足がもつれて……。近頃、少し、体がなまっているのかしら」

 

 その足元へ、目をやる。

 

 白足袋に包まれた(かかと)が、こわばったまま、小刻みに板の間を打ち続けていた。


 彼女の意志とは、関わりなく。

 

 ――なまっている、などという生易しいものではない。


 四肢の最も根本のところで、何かが狂い始めている。

 

 「姉上。立てるか」

 

 「ええ、平気よ。……よい、しょ……」

 

 私の腕を掴み立ち上がろうとした彼女が、膝の力を失い、再び胸へと倒れ込んでくる。

 

 咄嗟に、その二の腕を掴んで支えた。

 

 「――」

 

 行灯の明かりが、白く細い腕を照らし出す。

 

 赤黒く変じた斑。


 点々と散る、無数の刺し傷。


 皮膚は爛れ、あるいは(えぐ)れて、もとの白さを留めてはいない。

 

 そして、その刺し傷を覆い隠すように。

 

 幾重にも刻まれていた。

 

 歯型が。

 

 人の、歯の痕。

 

 血が乾き、瘡蓋(かさぶた)となったそれは一度や二度のものではない。


 同じ場所を執拗に、幾度も幾度も噛み締めた――そういう痕であった。

 

 「姉上……これは……」


 震える手で、その痕に触れようとした。

 

 だが、指先が届くより早く、彼女は弾かれたように身を引く。

 

 そして、傷ついた腕を胸元へ強く抱え込んだ。

 

 「見ないでっ」

 

 叫びの鋭さに、伸ばしかけた手が、宙で凍りつく。

 

 「汚くない……汚くないわ、半兵衛……。 これは、お清めなの……。 神様に近づくための、大切な儀式なの……」

 

 お清め。


 儀式。

 

 ――そうだ。思えば、兆しはあった。

 

 去年、裏庭で赤い紐と格闘していたあの時。


 巫女の修練を重ねた娘が、たかが紐一本に尋常でないほど指を震わせていた。

 

 そして、もう一つ。


 小夜を抱き寄せた、あの時。


 その背に回された白い指が、愛おしむ仕草とは裏腹に、着物へ食い込むほど強張っていた。

 

 震える指と、食い込む指。

 

 大祭の重圧ゆえと、あの時は流した。


 だが――あの二つは本当に、同じ理由から来るものであったか。 

  

 思考が、最悪の答えへと繋がっていく。


 私は、見るなと懇願するのも意に介さず、その細腕を強く掴む。

 

 (……薬か。あの甘い匂いの正体は香ではない。意識を奪う遅効性の毒。母上は、この細い腕に何を打ち込み続けている……)

  

 この点状の傷は、ただの刺し傷などではあるまい。


 おそらく、大陸由来の呪術儀式に用いられる中空の(はり)

 

 あるいは、毒を塗った針を皮膚に刺し、そこから薬効を直接経絡(けいらく)に流し込む、古来より伝わる秘されし施術。

 

 そして、この歯型。


 阿片や曼荼羅華(まんだらけ)の類か――それらを投与し意識を混濁させ、抗う力を奪った上で、儀式的な陵辱を行っていた。

 

 神の、代理人として。

 

 あるいは、いずれ彼女を貪るであろう権力者たちへ捧げるために。


 痛みと、それ以外の何かとの区別すらつかぬ、人形へと作り変えるために。

  

 「姉上……」

 

 「違う、違うの……」


 ササメは焦点の合わぬ瞳のまま、あどけなく首を振る。

 

 その瞳は涙で濡れているのに、どこか、楽しげにさえ見えた。

 

 「お母様がね、くださるの。お薬よ。……ちくりと、痛いけれど、すぐにお身体が、ふんわりとして、痛みも、悲しみも、ぜんぶ、消えるの。……暗いお部屋で、何をされても、怖く、なくなるの」

 

 「……何を、されている」


 彼女は、私の耳元に顔を寄せ、囁く。

 

 「神様と……一つに、なるのよ。私が、お母様で、お母様が、私で、白繭様が、わたしで……」

  

 その吐息すらも、あの、甘ったるい臭いがした。

 

 「私の、悪いところを、噛んで、吸い出してくださるの。……痛いけれど、気持ちいいのよ。頭の中がね、真っ白になって、……白繭様の、お声が、聞こえてくるの……」

 

 吐き気が、込み上げる。

 

 これが――竹中家の言う、神事の正体。


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