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【怪体新書】〜民俗学者、異世界で本物と出逢う  作者: 可和
第一章:竹中家の繭

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【『幕間』十三歳:籠の中の地図】〜夜の神様〜

 「わ、若様っ。墨の線が、効いてませんっ」

 

 あたしの悲鳴にも、若様は、振り向きもしない。

 

 懐から取り出したのは、小さな墨壺(すみつぼ)

 

 「まだ、最後の一本を、引いておらぬ」

 

 指に墨を含ませ、床の端へ。

 

 一本の線を、ゆっくりと、引いていく。

 

 その、あまりの落ち着きが――かえって、恐ろしかった。

 

 化け物は、もう、ササメ様の、すぐそこ。

 

 白い足袋の爪先まで、あと、三尺。

 

 なのに。

 

 ササメ様は、逃げない。声も、上げない。

 

 ただ、迫りくる黒い塊を、じっと、見つめている。


 そして。

 

 その口元は――笑っていた。

 

 なんで。


 どうして、笑って。

 

 ――その時、ちらりと、墨を引く若様の横顔が見えた。

 

 じっと、ササメ様を、見ている。

 

 あの、ウブメを見ていたときの、目で。

 

 「ササメ様っ」

 

 気づいた時には、両手が、行灯を掴んでいた。

 

 考えるより先に、体が動く。

 

 力の限り、それを、黒い塊へと叩きつけた。

 

 行灯が泥に触れた途端、ぐしゃり、と潰れ、油が飛び散る。

 

 ボッ――と、黒い体の一部が、燃え上がった。

 

 耳をつんざく、猫の絶叫のような叫び。

 

 だけど――炎に焼かれ、叫びながら、それでも化け物は、ササメ様へと、這い寄るのを止めなかった。

 

 燃える体を、引きずって、なお。

 

 あたしの喉から、声にならない悲鳴が、漏れた。

 

 止まって、くれない。

 

 嫌。


 嫌ぁ。

 

 ――ぱちん、と。

 

 何かが弾けるような、乾いた音。

 

 気づくと、化け物は、止まっていた。

 

 見えない壁にぶつかったみたいに、その場でもがいて、黒い泥を、まき散らしている。

 

 「……え」

 

 若様は、静かに、墨壺の蓋を閉じた。


 「もう、こちらには来ぬ」

 

 最後の一本の墨の線が――床の端まで、引き切られていた。

 

 *

 

 化け物は、墨の渦巻きの中を、ぐるぐると回っていた。

 

 何度も、こちらへ向かおうとする。

 

 けれど、そのたびに見えない壁に弾かれて、また同じ場所を、ぐるぐると。

 

 あたしは、座り込んだまま、動けなかった。

 

 投げつけた行灯の火が、あの泥の中で、じりじりと、燃え続けている。

 

 その小さな炎を、ただ、ぼんやりと、見ていた。

 

 「小夜」

 

 若様の声で、はっと、我に返る。

 

 「お前が行灯を投げつけたのには、驚いた。……すまぬ。怖い思いを、させた」

 

 あたしを見ずに、ぐるぐると回る化け物を、見つめたまま。

 

 「だが――どうしても、確かめておかねばならぬことが、あった」

 

 その声が、少しだけ、沈んでいた。

 

 何を、確かめたのだろう。

 

 聞きたいのに、立ち上がることも、できない。

 

 膝が、がたがたと震えて、言うことを聞かなかった。

 

 「わ、若様……。これ……さっき、若様が描いていた、図……」

 

 震える声を、どうにか押し出す。

 

 「これが――結界、なんですかっ」

 

 「……結界などでは、ない。お前も知っての通り、私に、霊力などという不可思議な術は、使えぬ。これはな――ただの、まやかしの図よ」

 

 若様は、円の中でぐるぐると回る化け物を、静かに見下ろしている。

 

 「あれに、知恵も、まともな目も、ない。屋敷の作りに沿うた風水――すなわち、気の流れの溝だけを頼りに、盲いた虫のように這い進むだけのものだ。ゆえに私は、この墨に砂鉄を混ぜ、気の流れの形代(かたしろ)とした。屋敷の廊下と寸分違わぬ気脈の縮図を、この床に、写し取ったのよ」

 

 ……何を、言っているんだろう。

 

 ふうすい。


 きみゃく。


 かたしろ。

 

 難しい言葉が、右の耳から左の耳へ、するすると抜けていく。

 

 あたしは、ぽかんと口を開けたまま、若様を見つめることしか、できなかった。

 

 「口を開けて、何を呆けておる」

 

 はっとして、慌てて口を閉じる。

 

 顔が、熱くなった。

 

 きっと、ひどく間の抜けた顔をしていたに……違いない。

 

 「……縁側を這う毛虫の周りを、嫌な匂いの汁で、囲うてやる。すると毛虫は、その輪から、出られなくなる。理屈は、それと、同じだ」

 

 毛虫。

 

 それなら、あたしにも分かる。

 

 「あれの乏しい感じ方では、この細い墨の線が、屋敷の果てなく続く廊下の壁と、同じものに思える。今あれは、屋敷の奥へ奥へと進んでいるつもりで――その実、私の描いた円を、ただひたすらに、巡らされ続けているのだ」

 

 ようやく、わかった。

 

 術なんかじゃ、ない。

 

 あたしが毎日、雑巾がけしている、あの長い廊下。

 

 それを、若様は、たった一本の墨の線で、この床に写し取って――毛虫を騙すみたいに、あの恐ろしい化け物を、閉じ込めてしまった。

 

 背筋が、すっと冷たくなる。

 

 なんて――怖い人なんだろう。


 「恐れることはない、小夜。あれに、私たちを襲う気など、初めから、ありはせぬ。――なにせ、あれの正体は」

 

 若様は、円の中をのたうつ黒い塊を、顎で指した。

 

 「奥座敷の白繭が、(さば)き切れずに溢れさせた――『汚穢(おわい)』なのだからな」

 

 「お……わい……?」

 

 聞き慣れない言葉を、あたしは、おうむ返しにする。

 

 「ありていに言えば――腹を下した獣の、糞のようなものよ」

 

 「ふ……っ」

 

 言葉が、喉に、詰まった。

 

 あの、髪や草履や虫の混じった、黒い泥。

 

 あれが、白繭様の。

 

 「放っておけば、この汚泥は、いずれ大元の胃の腑――白繭のもとへ、逆さまに流れ戻る。ゆえに母上は、夜のあいだだけ雨戸を閉て切り、屋敷の中心への道を、塞いでおられる。溢れた汚れを、外廊下という――円を成す水路へ、無理やり、流し続けるためにな。……大きな(かわや)の溝に、ぐるぐると水を巡らせるのと、同じ理屈だ」

 

 あたしの、頭の中が――真っ白に、なった。

 

 毎朝、毎晩、あたしが心を込めて雑巾がけしている、あの長い渡り廊下。

 

 あれが――化け物の汚物を流すための、水路。

 

 膝の上で握った手が、震えた。

 

 「で、でも……若様。じゃあ、この、化け物は……これから、どうなるんですか」

 

 「――見ていなさい」

 

 若様が、ふと、土蔵の小窓を見上げた。

 

 あたしも、つられて、その小さな窓を見る。

 

 外は、まだ暗い。

 

 けれど、いつの間にか闇の色が、ほんの少しだけ薄らいでいた。

 

 やがて。

 

 遠くで、村の鶏が鳴いた。

 

 一声。二声。

 

 小窓から、目も眩むような陽の光が、すうっと射し込んだ。

 

 朝日が――円の中の化け物を、照らす。

 

 その途端だった。

 

 焼けた石に水をかけたような、じゅう、という音を立てて、黒い体が、白い煙を噴き上げる。

 

 陽が当たるたびに、ぐつぐつと煮え立つ鍋のように泡立ち、はじけ、見る間に溶け崩れていく。

 

 やがて、ずるり、と音を立てて――跡形もなく、消えた。

 

 後にはただ、何かの焦げたような臭いと、白々とした、朝の光だけ。

 

 「……消え、た」

 

 あたしは、目を、こすった。

 

 「わ、若様……どうして、朝日なんかで……」

 

 けれど、若様は、答えなかった。

 

 昇りはじめた陽を背に、化け物の消えた床を――ひどく、険しい顔で、見つめている。

 「……若様」

 

 「――小夜。姉上」

 

 はっと、我に返ったように、若様が、こちらを振り返る。

 

 あたしとササメ様の顔を、順に、見た。

 

 「この答えは、そう容易くはない。今、説いて聞かせれば……一刻は、優にかかろう」

 

 ちらりと、小窓を見上げる。

 

 外の光は、もう、すっかり明るい。

 

 「お前は、朝餉(あさげ)の支度に行かねばならぬ刻限だ」

 

 「あ」

 

 はっと、する。

 

 あたしが遅れれば、お差配様の耳に入る。

 

 そうなれば、折檻では、済まない。

 

 「その答えは……また、後日だ」

 

 昇る陽を背に、若様は、静かに言った。

 

 「この雨は、じきにまた、降りだす。――次に空が晴れた、同じ刻。またこの土蔵へ、来てほしい」

 

 「最後の講釈を、打つ」

 

 ササメ様が、こくり、と頷く。

 

 あたしも慌てて、それに倣った。

 

 若様は、墨で汚れた指を懐紙(かいし)(ぬぐ)いながら、化け物の消えた床に、もう一度、目を落とす。

 

 それから――その視線が、ゆっくりと、ササメ様へ、向けられた。

 

 もう、笑っていない。

 

 ただ静かに座る、その白い横顔へ。

 

 「……まさか、ここまで進んでいようとは」

 

 ぽつり、と。

 

 独り言のように、若様は呟いた。

 

 あたしには、その言葉の意味が、分からなかった。

 

 けれど、その声に滲んだ――消え入りそうな、ひどく痛ましい響きだけは。


 いつまでも、耳の奥から、消えてくれなかった。

 

 *

 

 土蔵を出ると、朝の空気は、まだ、冷たかった。

 

 若様とササメ様を見送って、あたしは、台所へと小走りに急ぐ。

 

 板の間に駆け込むと、下働きのおばばたちが、もうお芋を洗いはじめていた。

 

 「おや、小夜。今日はずいぶんと寝坊したねえ」

 

 「す、すみませんっ」

 

 慌てて(たすき)をかけ、おばばの隣に座る。

 

 桶の水に手を浸すと、刺すような冷たさが、指先から一気に這い上がってきた。

 

 お芋を洗いながら――あたしは、さっきの土蔵でのことを、何度も、何度も、思い返していた。

 

 神様も、仏様も、化け物と、同じ。

 

 夜の神様は、白繭様から漏れ出た、汚物。

 

 あれが朝日で消えたのは、どうして。

 

 考えても、考えても、分からないことばかりが、胸の底に、積もっていく。

 

 けれど。

 

 一番、あたしの胸に焼きついて離れないのは――若様の、あの最後の、一言。

 

 お芋を握ったまま、あたしの手が止まる。

 

 あの若様が。

 

 夜の神様すら、虫のように扱う、あの若様が――今朝、たしかに、何かに怯えていた。

 

 あんなに恐ろしいものを前にしても、眉一つ動かさなかった人が。

 

 いったい、何を。

 

 考えようとして――ぞくり、と背筋が、冷えた。

 

 あたしは、それ以上、考えるのを、やめる。

 

 知っては、いけない気がした。

 

 いつの間にか、外では、梅雨の走りの雨が、しとしとと、降りはじめていた。

 

 *

 

 それから数日、雨は降り続いた。

 

 あたしは毎日、台所でお芋をふかし、あの長い廊下を拭いて回る。

 

 ――化け物の、汚物を流すための、水路を。

 

 雑巾を握るたび、土蔵で見た黒い泥が頭をよぎる。


 けれど、あたしには、それを拭くことしか、できなかった。

 

 ササメ様が奥座敷から這い出てこられる刻限には、いつも、必ず、廊下の隅に控えた。

 

 毎朝、板の間に額を擦りつけるようにして、這ってこられる、ササメ様。

 

 その姿を見るたびに、土蔵で聞いた若様の言葉が、胸の奥で、繰り返される。

 

 神様は、たちの悪い、用心棒。

 

 仏様の、本当の姿は――。

 

 これまで手を合わせてきたものは、いったい、何だったんだろう。

 

 降りやまない雨の音の中で。

 

 あたしは、誰にも言えない不安を、抱え続けていた。


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― 新着の感想 ―
更新がとても楽しみです。 ササメ様、よもや?感がよぎります。ここからどうなるのか、ワクワクが止まりません。
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