【『幕間』十三歳:籠の中の地図】〜渡り廊下〜
――ズリ、ズズッ。
雨戸の外で、這いずる音がする。
あたしと若様は、土蔵を目指して、長い、長い、渡り廊下を歩いていた。
行灯の灯りが、
一足ごとに、
ゆら、ゆらと、
頼りなく揺れ続ける。
木の板、一枚――そのすぐ外を、村じゅうが恐れる夜の神様が、這い回っている。
思わず、若様の袖を、強く握りしめた。
今夜は、数が多い。
やたらに、多い。
「――気にせずとも良い、小夜」
若様が、振り返らずに言う。
「ここの連中はな、夜の神などと畏れ敬うておるが――あれには、意志も望みもない。ただ、屋敷の周りを這い回るよう、仕向けられているだけの、哀れな残りかすよ」
「仕向けられて、いる……」
誰が。
何のために。
「――その答えも、今宵、自ずと知れる」
声が、いつもと、違った。
なんて言ったらいいんだろう。
腹の底に、火を抱えているみたいな――そんな声。
雨戸の外の冷たい気配と。
若様の抱えた、熱と。
あたしの、眠気と。
三つが混ざり合って――この長い渡り廊下が、終わらない夢の中みたいに、思えた。
*
――その晩のことを話すには、少しだけ、時を巻き戻さないといけない。
五月雨の頃。
大好きな春が終わって、一年でいちばん嫌いな梅雨が、とうとう来てしまった。
昨日の昼間。
若様が、珍しくあたしを呼び止めて、言ったのだ。
『明日の明け七つ半、北外れの土蔵で講釈を打つ。決して遅れぬように。……それと、姉上には私から直に伝えるゆえ、言伝は無用だ』
書物の講釈に誘われるだけでも珍しいのに、朝のお勤めの前に起きて来いだなんて――このお屋敷に来てから初めてのことだった。
だからあたしは、まだ夜も明けきらないうちに、無理やり布団から這い出した。
目をこすっても、頭の芯は、まだぼんやりしている。
それでも手早く身支度を済ませて、暗い廊下へ、そっと出た。
――若様は、もう、そこに立っていた。
火を入れた行灯を提げて、夜明け前の冷たい闇の中に、ひとり。
「……来たか。行くぞ、小夜」
短くそう言うと、若様は先に立って、歩き出す。
あの、長い長い、渡り廊下へ。
*
重い土蔵の扉を開けて、あたしたちは、中へ足を踏み入れた。
行灯を掲げた、その途端――
目に飛び込んできたものに、足が、竦んだ。
「……あっ」
床いっぱいに、墨で、大きな紋様が描かれていた。
真ん中から、ぐるぐると渦を巻いて。
その上に、いくつもの丸と、それを繋ぐたくさんの線が、絡み合っている。
灯りに照らされた黒い線が、生き物みたいに、うねって見えた。
いつだったか、お寺で見せてもらった、たくさんの仏様がぎっしり描かれた、ありがたい絵。
あれに似ていて――けれど、まるで違う、何か。
よく見ると、いくつもの渦は、ひとつの場所に巻きついている。
その渦の口が向く先を、あたしは、目で追った。
ちょうど真正面に――土蔵の外へと続く、もう一つの扉があった。
まるで。
あの扉から忍び込んでくる何かを、この紋様で、堰き止めようとしているみたいに。
「若様、これは……」
「――姉上は、既にお出でだ」
あたしの問いには答えずに、若様は、奥を指した。
紋様の、ちょうど真ん中。
墨の線で囲われた、ぽっかりと白い円の中に――ササメ様が、背筋をしゃんと伸ばして、座っていた。
その横顔は、薄暗がりの中で、ぞっとするほど、静かだった。
「お待たせした、姉上」
若様はササメ様の前に座り、あたしにも、目で、隣を示す。
墨の線を踏まないよう、そろり、そろりと進んで、若様の隣に膝をついた。
行灯を、三人の真ん中に、置く。
揺れる炎に照らされて、床の墨の線が――今にも、動き出しそうだった。
「姉上。小夜」
若様が、あたしたちを、交互に見る。
「これから話すのは、この屋敷の――いや、この世の、本当の成り立ちだ。長くなる。……だが、聞いてほしい」
ササメ様が、静かに頷いた。
あたしも、慌てて、何度も頷く。
若様が、壁に立てかけてあった一枚の板を、手元へ引き寄せた。
墨で、いくつもの三角と丸が描かれている。
床の紋様とは、まるで違う――絵。
その、いちばん上の大きな三角を。
若様は小枝の先で、ピシャリ、と叩いた。
「では――始める」




