【一二歳:結び目と紅葉の誓い】〜結び目〜
赤子の神隠し騒ぎから、ひと夏が、過ぎた。
あの夜より、村は――表向きは、何も変わらない。
明け方、山を下りた我々を、タネは、屋敷の門前で待っていた。
門扉に、這い蹲るようにして、縋りついたまま。
小夜が赤子をその腕へ戻すと、タネは私の前の土に額を擦りつけ、何度も、何度も、礼を述べた。
だが、その目は、もう、私を見てはいなかった。
――神を、見ていた。
あれからタネは、私が通るたびに道の端へ退き、深々と頭を垂れる。
私が十二の童子であることを、あの女は、忘れてしまったらしい。
篝火は――何も、言わなかった。
肩に晒を巻いて戻った私へ、遠目に一瞥をくれたきり。
事の顛末を問うことも、厳蔵を差し向けることも、なかった。
ササメだけが、その夜更け、私の部屋を訪れた。
部屋へは入らず、襖越しに、ただ、ひと言。
『無理を、しないでね』
それきり――衣擦れの音が、静かに、遠ざかっていった。
*
秋。雁来月。
庭の楓が、燃えるような赤に、色づき始めている。
死と狂いの染みついたこの屋敷にあって、縁側に面したこの裏庭だけは、心地よい静けさを保っていた。
縁側に腰を下ろし、古文書を読み解いていた私は、ふと、頁を繰る手を止め、庭先へ目をやる。
柔らかな秋の日差しの中、二人の少女が、遊んでいた。
――いや。
遊んでいた、という言い方は、正しくないのかもしれぬ。
「若様っ。早くこっちへ来てください」
静けさを破ったのは、快活な声である。
土に汚れた裾を気にも留めず、小夜が、庭石の上で箒を担ぎ、仁王立ちしていた。
産女の一件から、思うところが、あったのだろう。
近頃は、庭掃除にかこつけては、ああして箒を木刀のごとく振り回している。
傍目には遊びと変わらぬが、あの娘は一日も欠かさず、それを続けていた。
「……騒々しいな、小夜。考え事の邪魔だ」
縁側に掛けたまま、わざと不機嫌に眉を寄せて、返す。
「何言ってるんですか。ほら、ササメ様が呼んでますよ」
「姉上が?」
小夜の指す先――大きな楓の木陰に、もう一人の少女が座っていた。
私と二つ違いの姉、ササメ。
その面差しは、年を経るごとに、精巧な能面のような――奥を窺わせぬ美しさを、湛えつつある。
伏せた睫毛が、白い頬に、淡い影を落としていた。
だが――その姿に、誰もが思わず居住まいを正す『完璧な巫女』が。
いま、眉間に深い皺を寄せ、手元の赤い紐と、悪戦苦闘していた。
「……あら、半兵衛。ごめんなさい、学びの邪魔をしてしまって」
「構わないよ、姉上。……して、それは何事かな」
書物を置き、庭へ降りて、その手元を覗き込む。
細く白い指には、鮮やかな朱の組紐が――蜘蛛の巣にかかった蝶のように、絡みついていた。
「花結びよ。小夜にお願いして、教えてもらっていたのだけれど……どうしてかしら。やればやるほど、指が抜けなくなってしまったの」
泣きそうな顔で掲げられた両手は、見るも無惨なありさまであった。
紐に締められた指先は赤黒く色を変え、小刻みに、震えている。
本来、花結びとは、一本の紐で梅や菊を象る、吉祥の結びである。
だが、手の上のそれは、結び目というより――いっそ、呪詛に近い。
「あははっ……ササメ様、そこは右の中指をくぐらせるんです。小指に巻きついてますよ」
小夜が、腹を抱えて笑っている。
行く行くは当主となる御方への、あまりに不敬な笑い声。
だが、ササメは怒るどころか、つられて――困ったように、されど心底おかしそうに、声を立てて笑った。
夜の奥座敷で、篝火に課される、一分の隙も許されぬ『仕込み』。
姉は、その中で、しくじることをひどく恐れるようになっていた。
それでも、この裏庭だけは。
私と小夜の前でだけは――『紐ひとつ結べぬ、ただの不器用な娘』に、戻ることを許されているのだろう。
「笑い事ではないぞ、小夜。……ふむ」
私は、その指に絡んだ紐を、観察する。
民俗学の目から言えば、『結ぶ』は産霊に通じる。
神の力をその場に留め、魔を弾く――結界の業の、根本である。
だが、この絡まりようは、常人の域を超えていた。
結ぼうと思うて、結べるものではない。
どの端から手繰っても解けぬよう、誂えたとしか思えぬ――捻れ方をしている。
(要するに……絶対に解けぬ、知恵の輪か)
「……姉上。これは、ある種の――恐ろしい才能だ」
「嫌味かしら、半兵衛」
「いや、褒めているのだよ。これほど出鱈目な結界は、誰にも組めまい。これでは悪霊どころか――神さえ、迷うて出られぬ」
苦笑しつつ、丁寧に紐を解いてやると、ササメは「もう、二人して馬鹿にして」と、年相応の娘のように、頬を膨らませた。
「ほら、若様は、解けても結べないんですから。貸してください。あたしがやりますっ」
小夜が横から勢いよく割って入り、私の手から、紐をひったくる。
その手際は、鮮やかなものだった。
朝から晩まで冷たい水で雑巾を絞り、土に触れてきた、荒れた指先。
その指が奇術のように朱い紐を操り、あっという間に、ふっくらとした菊の結びを、咲かせてみせる。
古今の書を諳んじる私も、立つだけで人をひれ伏させる姉も――この、暮らしの手業には、敵うまい。
「すごいでしょう。勝手場のおばばに教わったんです。これ、一番強い魔除けになるんですよ」
小夜は得意げに鼻を鳴らし、出来上がった結び目を、ササメの帯の端へ、きゅっと結びつけた。
「はい。これでササメ様は、あたしが守りました。悪い虫も、化け物も、ぜったいに寄ってきません」
「ふふ。ありがとう、小夜。とっても頼もしいわ」
二人は顔を見合わせ、花がほころぶように、笑い合う。
その光景は、あまりに眩しく――そして、目を逸らしたくなるほどに、儚かった。
私はふと、姉の帯で揺れる、朱い結び目に、目を留める。
(……魔除け、か)
小夜の結んだそれは、確かに、美しい。
だが――この村に数百年巣食う、因習という名の化け物は。
あのような細紐で縛れるほど、生易しいものでは、ない。
日が傾き、庭に伸びる影が、黒く、長くなってゆく。
屋敷の奥から、夕餉の支度の匂いが、漂いはじめた。
その、煮炊きの煙のぬくもりに混じって――この家の、あの湿った淀みが、ゆっくりと、満ち始める。




