【一二歳:なき女】〜本物〜
雨の、匂いがした。
降ってなど、おらぬのに――泥と苔の湿った匂いが、岩肌から染み出している。
背後で、小夜が、震える手で提灯を掲げていた。
その灯が、岩の上の影を照らし出している。
白装束の裾から、ぽたり、ぽたりと、何かが滴り、岩を濡らしていた。
見上げれば――しなびた腰から下へ、赤い筋が幾条も垂れている。
――血、だ。
難産の、血か。
それが涸れもせず、今も、滴り続けている。
ぐるり、と。
女の首が――真後ろへ、捩じれ向いた。
場が、凍る。
――殺気。
「逃げろ、小夜っ」
叫ぶと同時に、化け物が、岩から飛び立った。
巨体が宙を舞い、風を裂いて――鋭い爪が、私の肩を掠める。
着物が裂け、血飛沫が、夜気に散った。
「若様っ」
熱い。
痛みより先に、灼けるような熱が、肩から指の先まで走り抜ける。
頭上で、化け物が身を翻した。
その拍子に――黒い何かが、ぼたり、と肩に落ちる。
冷たい。
そして、噎せ返るほどの生臭さ。
(……これは――)
人の、髪。
その長いひと房が、蛇のように鎌首をもたげ、私の右腕に巻きついた。
引き剥がそうとした手が――動かぬ。
「……腕が、重いっ」
髪ひと筋の、重みではない。
目に見えぬ何かが、そのひと房の上へ、次から次へと、積み重なってゆく。
膝が、泥に沈む。
――遠くで、小夜の悲鳴。
宙に佇む化け物が、ひび割れた口を裂けるほどに広げて、嗤った。
その喉が、ぐぼり、と波打つ。
(――吐く気か)
あの語りの合間、赤子に含ませていた――あれを。
髪に縛められたまま、左腕だけで、頭上を庇う。
べちょり、と。
粘ついたものが、腕に落ちた。
次の刹那――肌が、焼ける。
(……酸、か)
左袖が煙を上げて縮れ、見る間に、穴が広がってゆく。
その下で肉が腫れ、痺れが、指の先まで這い上がった。
遅れて届いた悪臭に、胃の腑が、引き攣れる。
「……うぐっ……はぁ……はぁ……」
(……これを――あの赤子に、与えていたのか)
猶予は、無い。
――立て。
立たねば、次で死ぬ。
絡め取られた右腕を、引きちぎる勢いで、振り回す。
脂ぎった髪が肌に喰い込み、血が滲む。
それでも怯まず、力任せに振り上げた。
ぶちぶちと髪が千切れ、頭の皮ごと、化け物から剥がれ落ちる。
肩の傷が裂け直し、痛みに、視界が白んだ。
「はぁっ……まだ……お……重いっ」
むしろ――増してゆく。
いつの間にか、黒い粉のようなものが、総身に降りかかっていた。
肩に積もったそれを指で拭い、目を近づける。
脂じみた、血の混じった――雲脂。
それがひとひら掛かるごとに、身が、鉛と化してゆく。
髪だけでは、なかった。
この化け物から零れ落ちる一切が――この身に、見えぬ赤子を、抱かせてくる。
ここに至って、ようやく、繋がった。
難産で死んだ女が、わが子を抱いたまま冷えてゆく。
あるいは、道行く者に子を抱けと迫り、受け取った者を、見えぬ重みで圧し潰す――産女の怪異譚。
だが、腕から腕へ赤子を渡すという段取りは、語りとして整えられた表の皮。
まことは――あれから零れるものの一切が、伝承に言う『石の赤子』を、宿らせてゆくのだ。
ならば――
剥がし方も、ある。
血と酸い水とに塗れた唇を舐め、声を、絞り出した。
「お前――濡れているな」
足元の泥が、僅かに、波打ち始める。
石をひとつ落としたほどの、目を凝らさねば見えぬ、波紋。
だが――この小さな揺らぎこそ、理に楔を打ち込んだ、証。
化け物の動きが、一瞬、乱れた。
のしかかっていた見えぬ重みが、わずかに、軽くなる。
「霊が……なぜ、濡れる。なぜ、腰から下より、血を滴らせ続ける」
夜風が、鉄の臭気を運んでくる。
「答えは、推して知るべし。――『難産で死んだ女の霊』の皮を、お前は纏うておる。だが、その血は、お前の血ではない。この村の――いや、この世の、誰とも知れぬ母たちの流した血を、寄せ集め、塗り込めただけの――借り物よ」
腰から垂れていた赤黒い筋が――止まった。
『……あちきの、血ぃ……』
化け物が、ぐらり、と揺れる。
言葉が、その輪郭を、内から軋ませてゆく。
だが――揺らいだのは、一瞬。
『あぁ……やかましい、やかましいっ』
白く濁った眼が、見開かれた。
崩れゆくおのれを認めまいとするかのように、両腕を大きく広げる。
――無数の髪がうねりを打って一斉に伸び、生き物のように宙を這い、私へ迫った。
(……躱せぬっ)
首、腕、胴、足。総身が、髪に絡め取られる。
首に巻きついたひと束が、ぎりり、と軋み、容赦なく喉を絞め上げてきた。
「ぐっ……がはっ」
喉の奥で、潰れた音が鳴る。
視界の端から、黒が、滲み始めた。
――娘。
前世の、救えなかった娘の顔が、掠れる視界に浮かぶ。
『お父さん、苦しいよ……』
あの声。
ただ祈ることしか、できなかった、あの夜の手。
――今も、私は、無力か。
絞まる喉の奥から、声を、押し出す。
「そ、の、髪……」
(……気が……遠の――)
刹那。
首の力が、ふっ、と弛んだ。
堰を切ったように、息が、胸へ雪崩れ込む。
「ひゅっ……かはっ……ごほっ……はぁ、はぁ……」
黒く塗り潰されかけていた視界が、開けてゆく。
目に飛び込んできたのは――すぐ傍で、鉈を振るう小さな影。
――小夜。
地に置かれた提灯の灯が、下から、その姿を照らしていた。
いつの間にか、私の腰から、鉈が抜かれている。
それを両手に握りしめ、あの娘が、私に絡みつく髪を、無我夢中で刈っているのだ。
「若様っ」
乱れた息を、無理やり、整える。
まだだ。
まだ、終わってはおらぬ。
「……その髪は……お前自身の、ものではない」
化け物の動きが、止まる。
否。
――止めさせられたのだ。
人の思いで編まれたこの化け物は、人の言葉を、聴かざるを得ぬ。
「お前が、まことに、日ノ本の言い伝えの『産女』――死した母の、哀れな霊であるならば。なぜ、その髪から、生臭い匂いが立つ」
化け物の真下の岩肌に、僅かな亀裂が走った。
宙に浮いていた巨体が、ゆっくりと、しかし確かに、沈み始める。
「それは、女たちの残骸。母を装うために、骸から剥ぎ取り、おのれの頭の皮に縫い付けた――偽物の髪。……お前はな、母などではない。母を騙る、人の骸の継ぎ接ぎなのだよ」
ぷつり、と。
腕の、足の、胴の髪が、腐肉のように崩れ落ちた。
巨体が――地へ、墜ちる。
岩を打つ、鈍く重い音。
泥が高く跳ね、低い呻きが、夜に響いた。
『ひぃぃ、ぎぃ、いたい。いたいいいっ』
墜ちた弾みに足があらぬ方へ捻れ曲がり、化け物は、のたうち回っている。
私はその様を、ただ――観察しながら、近づいてゆく。
不意に。
化け物が、赤子を抱えたまま、片腕を振りかざした。
黒く、異様に長い爪が、迫る。
(……遅い)
泥に塗れながら低く身を沈め、躱す。
そして、ゆっくりと間合いを取り、言葉を、重ねた。
「お前の名は、『うぶめ』。――その一つの名に、二つの貌が、縫い込まれておる」
巨体の周りの泥が、じわり、じわりと、すり鉢のかたちに沈んでゆく。
「一つは、日ノ本の地の信心が生んだ――産女と書く、子を産んで死んだ女の未練の霊。今一つは、海を渡って来た――姑獲鳥と書く、夜にのみ飛ぶ怪鳥よ」
『本草綱目』。
あるいは『和漢三才図会』。
大陸と江戸の学者たちが、妖しの正体を、鳥獣草木のうちに求めた――書物の、群れ。
――そこに、鍵がある。
「――『荊州に鳥あり。毛を衣れば鳥と化し、毛を脱げば女と成る。名づけて鬼鳥、また姑獲鳥』。かつて海の向こうの学者は、夜な夜な赤子を攫う怪異の正体を、そう書き留めた。人の赤子を奪い、おのれの子として育てる――鳥である、とな」
一歩、また一歩と、近づく。
女の腕が、私の足首を掴もうと泥を掻いた。
その動きを、目で、追う。
「……混ざって、おるのだ。幽霊譚と、怪鳥譚が。人々の恐れと、学者どもの又聞きの連なりの中で――同じ名で呼ばれた二つの別物が、奇妙に繋がり、縫い合わされ。お前という、その姿を拵えた」
口から、息が、漏れた。
「哀れなことだ。おのれが何なのかも、分かっておらぬのだろう。死んだ女として泣けばよいのか。――鳥として、飛べばよいのか」
化け物は、髪を振り乱して、わなないた。
赤子を抱く腕だけが、ひどく、引き攣れている。
『あちきの……お乳、どこ……羽根……ちがう、あちきは女で……おんなで……』
私は、足を、強く踏み鳴らした。
泥が跳ね、網目めいた波紋が、四方へ広がってゆく。
「その赤子に、何をするつもりだ。先程から――乳を、含ませようとしているように見えるが」
乳房から、白く濁った、血とも乳ともつかぬ雫が、滴る。
「無駄なことよ。その着物の下にあるものは、女を模した、ただの飾り。なぜなら――」
「――お前は、鳥なのだから」
最後のひと雫が、細く糸を引き――涸れた。
化け物が、狂乱した。
胸元を庇うように蹲り、その喉から絞り出される音は、もはや、泣き声とも悲鳴ともつかぬ。
びちゃり、と。
濡れ雑巾を落としたような音が、響いた。
乳房であったものが腐肉となり、地面に落ちた音。
藻掻くほどに、崩れてゆく。
それでも尚――目から黒い液を零しながら、這いずる。
「……赤子を攫うのは、怨みゆえではない。鶯の巣に、おのれの卵を産み落とす――カッコウと同じよ。血を繋がんとする、鳥の性。つまりは、ただの――子盗りの、害鳥に過ぎぬ」
化け物の肉と骨とが、異様な軋みを上げた。
女の悲鳴が――甲高い、鳥の叫びへと、変わってゆく。
人の恐れが、知らぬ間に継ぎ接いだ歪み。
それが、天地の理によって、否応なく、矯め直されてゆく。
肉という肉が爛れ落ち、骨が、あらぬ方へと折れ曲がる。
――その腕は、もはや、腕の形を保ってはいなかった。
赤子が、泥の上へ、零れ落ちる。
私は、その赤子へと、歩み寄った。
目の前で這いつくばる巨大な影が――風の抜けた鞴のように、見る見る縮んでゆく。
そして――
バサリ、と。
重い白装束だけが、泥の上に、崩れ落ちた。




