【一二歳:なき女】〜子守唄〜
「お……おお……」
「ねんねん……ころりよ……」
唄だ。
――子守唄。
「……小夜、提灯を」
私は足を止め、受け取った提灯を、声のする方へ掲げてゆく。
その時。
「……お願いでございます。その提灯、こちらへ向けるのは、お止めくださいませね」
岩陰の奥から――女の、声。
若い。
疲れている。
そして、どこか人懐こい――湿った、声であった。
私は、掲げかけた腕を、宙に留めた。
背後で小夜が、びくり、と肩を震わせる。
「わ……若様、誰か――」
左手を後ろへ回し、その口を軽く押さえた。
「静かに」
掌の下で、小夜がゆっくりと頷く。
「あい、すみませんねえ。明るいものは、赤子の目に障りますもので」
――赤子。
耳を、澄ませる。
岩陰の奥から、ごく微かに――聞こえる。
泣き声ではない。
吐息にも、なりきれぬような、か細い音。
(……生きている)
私は提灯をゆっくりと下ろし、小夜の手へ返した。
「……灯りは、低く。足元だけを、照らすように」
灯が、足元の泥だけを、丸く照らす高さに。
――空いた右手は、いつでも腰の鉈に届く。
「ご親切に、ありがとうございます」
女が、礼を言った。
妙に、行き届いた物言いであった。
「……何用か」
短く、応じる。
「何、と申されましても」
女が、小さく笑う。
「こんな夜更けに、お若い方がどちらへ行かれるのかと。心配で、つい、お声をかけてしまいましたの」
(……若い、か)
「村の、赤子を探している」
「まあ」
女の返事が――ひと呼吸、遅れた。
「それは、それは、ご立派なことで」
「あちきも、赤子を、探しておりますの」
(……遊里の物言いに、在所の言葉が、混じっている)
「もう、ずいぶんと、長うございますけれど。難産でしてねえ。産婆さんが、もう駄目だと言うのを、あちきは、お腹を押さえて、泣いて、縋って。……赤子が生きて出てくれれば、あちきの命は、どうなっても構いませぬ、と」
小夜の息が、浅くなってゆく。
口を押さえていた手をそっと離し、代わりに、袖を軽く引いた。
――動くな、の合図。
「……お腹を、割いて、出してもらいましたの。赤子は、それは元気な声で泣きましたよ。あちきは、お乳をあげようとしました。だけれど、もう、指が動かなくなっておりましてねえ。腕が、重くて、重くて」
――重くて。
「産婆さんが、赤子を、あちきの胸に置いてくれましたの。あちきは、五日。五日だけ、この子を抱きましたのよ」
――五日。
「五日、経ちましたらねえ。この子は、冷たくなりましてねえ。あちきは、この子が冷たくなっても、離しませんでしたの」
ぐぽり、と。
女が語る合間に、奥で、音がした。
次いで、ぴちゃ、と――糸を引く、湿った音。
か細い吐息が、一瞬、途切れる。
か、と、小さく喉の鳴る音。
その合間で、女は、慌てたような声を上げた。
「あら、あら、ごめんなさいねえ。この子、泣いて、ねえ」
――泣いていない。
「おお、よしよし。お腹が空いたのでございますねえ」
――泣いて、いない。
「すみませんねえ、お若い方。この子、我儘でございましてねえ。すぐに、お腹を空かせますの」
袖を握る小夜の指が、震え続けている。
「ほぅら、もう少しねえ……もう少し、お食べ」
また、ぐぽり、と湿った音。
吐息が――さらに、弱くなった。
「あらあら、ごめんなさいねえ。この子、泣き止みませんで」
気づけば、掌に、爪が喰い込んでいた。
この女、話が通じぬのではない。
こちらには――通じている。
礼を尽くし、気を遣い、詫びまで言う。
通じておらぬのは、ただ一つ。
腕の中の、赤子にだけ。
(語らせ続けてはならぬ。赤子の息が、保たぬ。……だが、断ち切るには、まだ――決め手が、足りぬ)
「……お若い方。少しだけ、お願いがございますの」
女の声の――粘りが、変わった。
「この子を、少しの間、抱いていただけませぬか」
「…………」
「あちきは、もう、指が動きませぬもので。この子に、お乳を差し上げるにも、ねえ……抱いてくださる方が、いれば」
声が、じわり、と近づく。
その時――
小夜が、よろめいた。
見えぬものに気圧されたか、半歩、足が泳ぎ――その手の提灯が、傾いだ。
光が、岩陰の奥へ、一条、走る。
岩の上に、蹲る、巨きな影。
ぼろぼろの、白い着物。
乾き、ひび割れた、白粉の肌。
はだけた胸元に垂れた、乳房が――ひとつ。
その先から、血とも乳ともつかぬものが、糸を引いて、落ちる。
光が過ぎ、闇が、戻った。
「――――」
「まあ……提灯が、揺れましたねえ」
女の声が、笑みを含む。
「お嬢さん。怖がらなくても、よろしいのですよ」
――小夜を、見ている。
「お抱きくださいませ。ねえ、お若い方」
私は、乾いた唇を舐めた。
小夜の腕を引き、己の背の、深くへ隠す。
「――断る」
岩陰の声が、ふつり、と止んだ。
残るのは、か細い息の音、だけ。
「お前は――」
息が、ひとつ、弱まる。
「――産女、か」
か、と。赤子の喉が、鳴った。
岩の上で――闇が、膨れ上がる。
「小夜っ、灯りをっ」
光が、裂け目を薙いだ。
化け物が、牙を剥いた。




