【一二歳:なき女】〜神隠し〜
私が一二歳となった、初夏のことである。
事の起こりは、どこの農村にもある、ほんの油断であった。
――後になって、私が聞き集めた限りでは。
村の西外れ、水気を含んだ藪の口で、若い母親――タネが、薬草を摘んでいた。
籠に寝かせた赤子を木陰に置き、ほんの寸刻、目を離した。
風のない、蒸し暑い、昼下がり。
戻ったとき、木陰には、空の籠だけが残されていた。
すぐ傍にいたはずのタネの耳に、泣き声ひとつ、獣の足音ひとつ、届いていない。
まるで、初めから赤子などいなかったかのように。
そこには、ぽっかりと――穴のような静けさだけが残されていた。
タネは、半狂乱で村へ走った。
幾度も転び、爪を割り、血の滲む手で土を掴んでは、起き上がり、また走った。
――だが、村は、動かなかった。
「日が暮れる。門を閉めろ」
村長の声が、すべてであった。
この村の掟。
日の落ちた山へ入った者は――還らぬ。
赤子ひとつの命と、村ひとつの命。
量り比べるまでも、ないということだ。
重い木門に、閂の落ちる音がした。
タネは、門の内に取り残された。
――我が子だけを、夜の側に残して。
その音は、女の耳に、棺の蓋の閉まる音と聞こえたであろう。
「開けて……開けて、くだされえ……っ」
固く閉ざされた門に取りすがり、喉も裂けよと叫ぶ。
誰も、動かない。
――動けぬのだ。
恐れに、縛られて。
絶望した女が最後に向かったのは、己の家ではなかった。
村でもっとも忌まれ、もっとも恐れられている場所――竹中の、屋敷であった。
*
「お願いです、篝火様、当主様……どうか、どうか、お助けくださいませ」
日の落ちきった門前で、タネは、冷たい地面に額を打ち付けていた。
何度も。
何度も。
額が割れ、血が滴っても、なお。
「あの子はまだ、乳の香も抜けぬ赤子にございます。朝を待たずに、息が止まってしまいます。どうか、竹中様の霊妙なるお力で、あの子を……」
やがて、重い門が軋み――現れたのは、篝火ではなく厳蔵であった。
その顔は、常にも増して、岩のように動かない。
「お引き取りを。当主様は、神事の最中。……それに、神隠しに遭うた子は、もう、こちらの世の者ではござらん。お諦めなされ」
「そんな……あたしの乳は、こんなにも張っとるのに……嗚呼ぁ、あぁぁ……鬼。お前ら、血の通わん、鬼だっ」
厳蔵は、その呪詛を聞き捨て、容赦なく門を閉めにかかる。
縋りついたタネの指が、分厚い木枠に挟まれた。
骨の軋む音と、女の絶叫とが、夜気に吸い込まれていく。
「――待て、厳蔵」
私は、縁側に立っていた。
腰には、山鉈。
肩には、調べの道具を詰めた頭陀袋。
――身支度は、女の悲鳴を聞いた時から済ませてある。
(……来たか)
二年、待った。
だが、待ち侘びた獲物は――よりにもよって、赤子をひとつ攫って現れた。
猶予は、朝までも、あるまい。
「若様。……お部屋に、お戻りください」
「戻らん。その女の話を聞く。――赤子が消えたのは昼日中だ。夜の化け物の仕業とは限らぬ」
「なりませぬ。夜の山へ入るは、命を捨てるも同じこと」
「私が死んだところで、この家は、予備をひとつ失うだけよ。母上は、困るまい」
厳蔵が、わずかに、黙った。
その巨きな体の横を、私はすり抜け、閉まりかけた門を押し開ける。
タネが、泥と血にまみれた手で、私の裾に縋りついた。
額の、割れた顔。
「泣くな。タネ、場所を言いなさい。……小夜、灯りを持て」
「は、はいっ」
裏口で聞き耳を立てていたのだろう。
青ざめた顔の小夜が、火の入った提灯を提げて、飛び出してくる。
黙ってこちらを見据える厳蔵を一瞥し、私たちは、闇に沈んだ藪へと向かっ
た。
*
夜の山は、異界として、口を開けていた。
木々は、ねじくれた骸の腕のごとく突き立ち、草むらの奥からは、得体の知れぬ羽音が、絶え間なく耳の奥を掻いてくる。
腐葉土の匂いに、獣の臭い、古血めいた鉄錆の匂いが、混ざり込んでいた。
「わ、若様……。なにか、います。ぜったいに、なにか、います……」
小夜が、歯の根を鳴らして、私の帯を握りしめる。
「恐れるな、小夜。恐れは目を曇らせ――化け物を肥やす。……灯りは、足元へ」
赤子の消えた、木の下。
私は四つに這い、地面の跡を、拾ってゆく。
籠のあった場所。
そこから、藪の奥へと点々と続く――何か。
足跡では、ない。
ぬめる液が、草を薙ぎ倒しながら、奥へ奥へと、続いている。
そのぬめりを指の先で掬い、鼻へ近づけた。
「鉄錆の匂い。薄いが、血が混じっておるな。それと――川底の泥が腐ったような、生臭さ。……獣では、ない」
四つ足の獣なら、足の跡が残る。
人なら、草が踏み折られる。
だが、これは、どちらでもない。
腹を地に擦りつけて、這うたか。
あるいは――濡れた何かを、引きずっていったか。
「若様、あれ……」
小夜が、震える指で、頭上の枝を差した。
何かが、引っ掛かっている。
木に登り、それを取った。
長さ一尺ほどの――異様に脂ぎった、羽。
ただの大鳥の羽ではない。
軸が太い。
そして根元には――人の髪に似た黒い縮れ毛が、絡みついていた。
「……ふむ」
私はそれを頭陀袋に収め、ぬめりの跡を、追った。
*
斜面を登りはじめて、半刻。
提灯の灯が、ひと足ごとに、闇に喰われてゆく。
「若様……なんだか、ひどく、嫌な感じが、します」
小夜の勘は、よく当たる。
――近い、ということだ。
不意に、風向きが、変わった。
むせ返るような死臭。
そして、それとまるでそぐわぬ――白粉めいた甘ったるい匂いが、鼻の奥を突く。
暗がりの、奥。
巨岩の折り重なる、その裂け目から――
その音は、聞こえてきた。




