【十歳:理の刃】〜英雄〜
「ならば、ここからが本題だ」
名籍の最初の頁。
その最上段に、指を滑らせる。
「この、一番上の字が読めるか」
「えっ、えっと……じゅう……てん」
「よい。十天、と読む」
「じっ、てん」
「陰陽府の頂きに座する、十人の長。それを束ねて、こう呼ぶ。――ここがな、面白い」
「?」
「この府は、家柄を見ぬ。才ひとつあらば、生まれは問わぬと――堂々と、書いてある」
小夜が、また、火傷を隠すように袖口を押さえた。
私は、気づかぬふりをする。
「中でも、上の三人――」
指先を、名の上で、三人ぶん、滑らせる。
「上三天は、別格、とある。一に、源頼光。二に、芦屋道満。三に、藤原秀郷――」
指が、止まった。
背筋を、冷たいものが、走り抜ける。
「あっ」
声を上げたのは、私ではなかった。
「若様、その『よりみつ』って人……」
小夜が、膝立ちになって名籍を覗き込む。
「……知っているのか」
「村のおばばが、昔話で教えてくれたことがありますっ。悪い鬼を退治した、強いお侍さん。鬼の親分を、やっつけた人ですよねっ」
まじまじと、小夜の顔を見つめる。
この娘は、己が何を言ったのか、わかっていない。
わからぬまま――組み上がりかけていた私の見立ての、最後の歯車を、かちり、と噛み合わせたのだ。
「……小夜」
「は、はい」
ゆっくりと、口の端を上げる。
「賭けは、お前の勝ちだ」
「え……」
「金平糖を、十粒つけてやろう」
「じ、じゅうっ」
両目を丸くして、それから、慌てて首を振る。
「え、えっ、なんでですかっ。あたし、外したのに」
「ああ、外した。だが、いまの一言が――十粒分の働きをした」
私は名籍を閉じ、その表紙に掌を重ねた。
――源頼光。芦屋道満。藤原秀郷。
いずれも、いまより数百年の昔――平安の世の、武将と陰陽師である。
とうに墓の下で骨と化しているはずの英雄たちが、なぜ、刷り立ての名簿に、肩を並べておるのか。
足元の床が、すう、と薄くなるような目眩がした。
目を細め、行灯の火を睨みつけながら、考えを巡らせる。
この世界において、怪異とは――人の怖れという想念が、形を成したもの。
ならば。
その逆もまた、然りではないのか。
夜の闇に怯える民が、酒呑童子を討った『化け物殺し』の再来を、待ち焦がれたとする。
国を護る、力ある陰陽師の再来を強く祈ったとする。
その、何万、何十万という人の願いが――観測となる。
英雄の魂を……否。語り継がれてきた『物語』そのものを練り固め、血肉ある人として、この世に在らしめたのだとしたら。
(……なるほど。だから――書を、焼いたか)
「わ、若様……お顔が、すっごく怖いです」
「小夜」
「はひっ」
ゆっくりと、小夜の目を見る。
「お前の言うた通り、頼光は『昔話のお侍さん』だ。村の年寄りが孫に語って聞かせるほど、人の心に深く刻まれた英雄よ。――その皆の願いが、英雄その人を、この世に繋ぎ止めておるのだとしたら」
小さな口が、閉じた。
眉を寄せ、私の言葉を、一音ずつ、噛み砕いている。
その横顔を、伽羅の薫りが、静かに撫でていった。
やがて、おそるおそる、小夜は口を開く。
「……つまり」
「うむ」
「お侍さんが来てほしいっていう、みんなの気持ちが……昔のお侍さんを、生き返らせちゃうってこと、ですか……」
「……驚いたな」
短く、息を吐く。
「その、通りだ」
この娘の呑み込みの良さには、時折、本気で舌を巻く。
言葉は知らぬ。字も読めぬ。
だが、物事の芯を掴む勘だけは――並の学者を、凌ぐ。
ただ、その勘の指し示す先は、底が知れぬほどに、暗い。
怪異も。
人の守り手たる英雄も。
詮ずるところ、人の手前勝手な願いの||拵えた、まぼろしの人形に過ぎぬのだとしたら――これほど滑稽で、救いのない話もあるまい。
(……己すらも、な)
「若様……」
その声に、我に返った。
白湯の湯気の、ほのかに甘い匂い。
……それが、私の足元を、この世に繋ぎ止めていた。
「いや、何でもない。続きだ、小夜。この十天の連中、誰も彼も、化け物じみた力を持ってはおるが」
指先で、湯呑の縁を、こつり、と打つ。
「府の内にも、徒党がある。血筋を巡る争いがある。例えば土御門家のごとき、古式を重んじる家が束ねる徒党には――必ず、付け入る隙が生まれるものだ」
小夜は腕組みをして、うんうん、と大げさに頷いた。
「つまり、その『十天』のおじさん達は、強いけど、仲が悪いってことですね」
「……平たく言えば、そうだ」
「じゃあ、若様が、その中で一番偉い人と仲良くなって、お願いすればいいんです。その……お屋敷の、奥のお部屋にいる……あの、恐ろしい神様を、なんとかしてくださいって」
その声は尻すぼみに細り、終いには、あたりの闇を憚るような囁きになった。
この娘に、信心は、ない。
あるのは――口に出すことさえ憚られる、肌に染みついた怖れのみ。
「…………」
それは、それとしてだ。
国の切り札を相手に、お友達になって、お願いをする。
政の駆け引きも人の腹の黒さも、まるで勘定に入れぬ――天真爛漫が過ぎる暴論であった。
「小夜。……連中を、気のいい百姓の親爺か何かと、思うてはおらぬか。あの者たちはな、私たちのような田舎の子供など、路傍の石ころほどにも思うておらぬ」
「でも、若様なら大丈夫ですよ。だって、こんなに難しい字を読めるし、あ、あたしの腕の、悪い呪いだって治してくれたし……それに、その、お顔も可愛いから、偉いおじさんたちも、可愛がってくれますっ」
ニカッと歯を見せて笑い、私の頭を、ぽんぽん、と無遠慮に撫でる。
この私に――『顔が、可愛い』。
八八歳まで生きた老学者の矜持が、音を立てて崩れ落ちた。
「……褒め言葉として、受け取っておく」
深く嘆息して、小夜の手を頭から下ろす。
「だがな、小夜。陰陽府の連中は、『可愛い子供』だからと助けてくれるような、お人好しではない。連中を動かすには、おのれが『使い道のある化け物』だと、証を立てねばならぬ」
「つかいみち……ですか」
「お前も知っての通り、この身には霊力がない。まともに門を叩いたところで、下働きが関の山。ならば――府の首座に食い込むだけの、誰にも真似のできぬ功績が要る」
「こうせき……功績って、どうやって、作るんですか」
「霊力なくして、怪異を殺せると――証を立てるのだ。理は、とうに立っておる。あとは、手頃な……試し斬りの的が、現れるのを待つばかり」
閉て切った雨戸の、その向こう。
夜に沈んだ村を、思う。
この竹中の地は、白繭への強い観測ゆえか、野良の怪異の寄りつかぬ異な土地だ。
だが、人の営みのあるところ、小さな罪や未練の綻びは必ず生まれる。
早ければ、一年。
長くとも、二年のうちには。
怪異を仕留め、理の正しきことを、証し立てる。
すべては――本丸のための、布石に過ぎぬ。
私は、屋敷の奥へと目を向けた。
壁の、幾重も向こう。
淀みの渦巻く、奥座敷。
今この刻も――ササメが、『仕込み』を受けている場所。
五年の後。
あの娘が当主の座に就き、白繭へ捧げられる儀式――『白繭大祭』。
それまでに、決着をつけねばならぬ。
あの奥座敷に鎮座する化け物を解体し、ササメを、謂れなき定めから引き剥がす。
(そして――白繭の首。あれに勝る手土産は、ない)
それを携えて、この屋敷を捨て、陰陽府の門を叩く。
行灯の灯が、じ、と小さく鳴いて――細くなった。
「……若様?」
ふいに、袖を引かれた。
「なんだか……怖いお顔と、嬉しいお顔が、いっぺんに混ざってます」
「……小夜」
「は、はいっ」
「先ほどの、お前の願い――覚えておこう」
「……ねがい」
「夜通し明かりの灯る町。いつか必ず、お前にも見せてやる」
小夜の顔が、行灯よりも明るく輝いた。
「ほ、ほんとですかっ。や、約束ですよ、指切りっ」
言うが早いか、右手の小指を、ずい、と突き出してくる。
私は、その小さな指に、己の小指を絡めた。
「ゆーびきりげんまん、嘘ついたら、針せんぼん、のーますっ」
「……剣呑な約定よ」
「えへへっ」
やがて小夜は、賭けの払い――金平糖十粒の包みを胸に抱き、何度も振り返っては頭を下げ、部屋を出ていった。
軽い足音が、跳ねるように、廊下の奥へ遠ざかってゆく。
……静かに、なった。
私は独り、行灯の前に座り直す。
火袋の小窓を、開いた。
(……来るがいい)
一年でも、二年でも、待とう。
この閉ざされた闇の底で、爪を研ぎ、理を磨く。
指の先で、灯心を、油の中へ、押し沈める。
じゅ、と小さく鳴いて――火は消え。
闇が、満ちた。




