【十歳:理の刃】〜陰陽府〜
冬。如月。
軒の氷柱が朝日を含んで鈍く光り、庭の残雪には、活発な少女の小さな足跡が――母屋から土蔵へ、忙しなく点々と続いている。
二年前。
この手で、あの娘の腕に焼印を刻んだ日から。
誰に命じられたわけでも、誰に乞われたわけでもない。
言いつけられた給仕や雑用を誰よりも早く熟し、僅かな暇を拵えては、小夜は、私の自室か土蔵へと足を運ぶ。
雨の朝も、雪の宵も、それを欠かしたことはなかった。
*
立春を三日後に控えた、凍てつく夜。
いつものように土蔵で書物の山を漁っていると、虫食いだらけの古文書のあいだに、明らかに毛色の違う数冊が紛れているのに、目が留まった。
表紙の題簽には、『官刻・諸国風土記』。
そして――『陰陽府名籍』。
指先を、這わせる。
使い込まれた和紙の毛羽立ちではない。
下ろしたての奉書紙の、滑らかに張り詰めた手触り。
上質な墨の匂い。
そしてその奥に、微かな――伽羅の薫り。
私は、その数冊を抜き出して自室へ持ち帰った。
文机に、『陰陽府名籍』を据える。
小夜が運んできた白湯の湯気越しに、表紙の「府」の一字を、指の腹で、ゆっくりとなぞった。
六つの時、蔵の底で『西国風土記』と『陰陽寮秘録』の写しとを読み比べ、この世界の歴史が孕む齟齬に気づいた。
あれから、四年。
蔵に眠る公の書付を読み解き続け――いま、当時の推論の裏が取れた。
「……答えは推して知るべし、か」
暗がりに、薄い笑みが零れる。
外界から閉ざされたはずの、この村の蔵に。
なぜ、公儀の秘事に触れるような刷り立ての書物が転がっているのか。
――篝火が夜ごと奥座敷でもてなしている、都の上つ方。
その者らが置き捨てていった、切れ端であろう。
竹中の家が、国の臓腑と、泥濘のごとく深く絡み合っている――何よりの証である。
だが、その不用心な傲りこそが、私にとって、またとない命綱となる。
行灯の熱に炙られて、伽羅が、ほのかに立ち昇った。
(……都の上つ方の匂い、か)
「若様。また、難しい御本ですか」
傍らに畏まっていた小夜が、遠慮がちに、けれど、もの珍しさを隠しきれぬ目で手元を覗き込んでくる。
袖口から、引き攣れた火傷の痕が、ちらりと覗いた。
私は名籍を膝に置き、小夜へ向き直る。
「……そうだな。小夜、一つ、賭けをせぬか」
「か、賭け、ですかっ」
華奢な背筋が、ぴん、と伸びる。
「お前が損をする賭けではない。当たれば、今宵の白湯に、金平糖を一粒つけてやろう」
「こっ、金平糖……」
この娘の瞳は、金平糖のひと言で、たやすく輝く。
「問う。――この国の幕府は、いつから化け物を取り仕切っておると、お前は思う」
「えっ……えっと、お奉行様とか、お殿様が、ずっとずっと昔から……じゃ、ないんですか」
「違う」
「あぁっ……金平糖……」
肩を落とす小夜に、薄く笑ってみせる。
「気に病むな。この国の者は、一人残らず、お前と同じ答えを口にする。――そう答えるように、仕込まれておるのだからな」
「……仕込まれて」
薄い眉が、きゅっと寄った。
――相変わらず、思ったことが顔に出る娘だ。
私は、表紙の「府」の一字を撫でながら、続ける。
「もともと、化け物を扱うていたのはな。朝廷の内にあった、『陰陽寮』というお役所であった。それを、幕府が……力ずくで、奪い取った」
「奪った……お侍さんが、お公家さんから……」
「そればかりでは、ない」
指先を、止める。
「奪うた後がな、また――念が入っておる。都合の悪い古い書物を、片端から」
行灯の芯が、ちり、と爆ぜた。
「――焼いた」
「――」
小さな喉が、鳴った。
「焼き尽くした後で、幕府は、世間の口伝てに、こう囁かせた。『化け物は、むかしむかしから、ずっと幕府の領分であった』――と」
「……でも……それ……嘘、ですよね」
「ああ。真っ赤な、嘘だ」
名籍を、指の腹で、とん、と叩く。
「小夜。人というのはな。同じ嘘を、数百年」
「……数百年」
「聞かされ続ければ――それは、真実に化ける」
小夜は、口を、ぽかんと開けている。
字も読めぬこの娘に、歴史を書き換えるなどという話が、すっと腑に落ちるはずもない。
だが――この娘の勘の良さは、私が知っている。
「そうだな……。お前、この竹中の屋敷には、『表』と『裏』があるのを、知っているな」
肩が、びくり、と跳ねた。
「……は、い」
火傷の痕を隠すように、右の袖口を、左手で握り込んでいる。
「お客様を、お迎えする……お綺麗なお座敷と……その……」
「奥」
短く、継いだ。
「……奥の、お部屋」
「表で竹中は、立派な名家の顔で笑うておる。では、裏では、何をしている」
「…………」
(……答えられぬ、か)
伽羅の薫る名籍を、掌で、そっと撫でる。
「……それと同じことだ、小夜」
囁くように、告げた。
「幕府は表で、『昔から我らが、民を化け物より守ってきた』と笑う。だが裏では――奪った証しを焼き、口を塞ぎ、天下には、化粧をした昔話を配って聞かせる。……そしてな、小夜。この本は、お前の言う――あの『奥のお部屋』から、零れ落ちてきた物なのだよ」
大きな瞳が、ふるり、と揺れる。
――肌で、解したか。
この娘が腑に落ちる時の顔を、私は知っている。
「……若様」
「なんだ」
「それじゃあ……この御本……恐ろしい本、なんですか」
「いや」
ゆっくりと、首を振る。
「――だからこそ、使える本よ」
「……」
「裏を知らぬ者には、ただの名簿。だが、裏を知る者には――敵の手の内を丸ごと記した、何よりの種明かしとなる」
名籍の頁に、初めて、指をかけた。
「この世にただ一つ。化け物の喉元へ食らいつく牙を持った――府が、ある」
「あっ」
怯えていた瞳に、ぱっ、と好奇の火が点る。
「その御本に書いてある、人たちですねっ」
「ああ」
ぱらり、と頁をめくる。
「――陰陽府。幕府が朝廷より奪い取った呪術の一切を、一手に握る役所だ。彼の者たちだけが術を使い、式神を従え、化け物から人を守ることを――許されている」
「す、すごいっ……じゃあ、そこに行けば、夜でも怖くないんですね」
「それどころか――」
声を低め、わざと、勿体をつける。
小夜が、ごくり、と喉を鳴らすのが、行灯の薄明かりにも、はっきりと見えた。
「陰陽府が張り巡らせた結界の内側ではな、小夜。――夜通し、明かりが灯っておる」
「……あ」
「人々は夜遊びに興じ、笑い、酒を酌み交わしているそうだ。我が竹中のごとき、狂うた習わしに怯える夜は――そこには、無い」
「よ」
両手で口を押さえる。その目だけが、爛々と輝いている。
「……夜遊び……」
日が落ちると同時に分厚い雨戸を閉て切り、息を潜めて朝を待つ――そんな暮らししか、この娘は知らぬ。
その小夜にとって、「夜遊び」のひと言は、極楽浄土にも等しい響きなのだろう。
「わ、若様……あたし、そこに、一度でいいから、行ってみたいですっ」




