【八歳:焼印の慈悲と共犯の傷】 〜焼印〜
目の前に、小夜が倒れている。
右腕は肉の奥まで焼け抉れ、絶え間なく引き攣れていた。
(このままでは……死ぬ)
体の水が涸れるか。
痛みに、心の臓が潰れるか。
火傷で人がいかに死ぬか――私は、書物の上でしか知らぬ。
医者では、ないのだ。
己の小さな両手が、無様に震えていた。
桶を引っ掴み、勝手へ走る。
塩と、砂糖。
壺ごと鷲掴みにして、量も計らず水へ放り込み、白く濁るまでかき混ぜた。
――ただの水は、弱り果てた体を素通りする。
塩と、甘み。
前世の書物の隅で読んだ、それだけの覚えに、縋る。
「飲め、小夜。……頼む、飲んでくれ」
気を失ったままの顔を、わずかに上向かせる。
だが、流し込んでは、ならぬ。
眠る者の喉へ水を注げば、息の道へ落ちる。
――それだけで、死ぬ。
逸る手を抑えつけ、濁り水を含ませた布で、少しずつ、少しずつ、唇を湿らせてゆく。
……どれほど、そうしていたか。
ようやく、布を持つ手が止まる。
唇は、湿った。
だが、それだけだ。
焼け爛れた腕からは、透いた汁が滴り続けている。
(次は……次は、何だ)
頭の中が、白く飛ぶ。
『呪禁医療覚書』――傷の部――火傷の手当て――。
記憶の頁を、爪を立てるようにして手繰り寄せる。
かねて取り置いていた、痛みを散らす曼荼羅華の葉を握りしめ、身を屈めた。
その途端――書のいずれの頁にも記されていなかった臭気が、鼻の奥へ滑り込む。
胃の腑の底が、ひと拍、せり上がった。
奥歯を噛み、堪える。
滲んだ視界のまま、曼荼羅華の葉を口へ放り込み、奥歯で潰した。
苦味が口いっぱいに満ち、舌の根が痺れる。
――毒草なのだ。
量を誤れば、これだけで小夜は死ぬ。
(……正気か、私は)
だが、決める者は、私のほかにおらぬ。
唾と混ざった緑の塊を、震える掌に吐き出す。
腫れを引かせる薬草と練り合わせ、爛れた肉へ、塗り広げてゆく。
真新しい晒をきつく巻き、縛り上げた。
傷が膿み、腐るのを防ぐ――せめてもの手当。
あとは。
この娘の、生きようとする力に懸けるほかなかった。
*
夕暮れ。
部屋には、焼けた肉と薬草の匂い――その奥に、薄く、死の臭いが沈んでいた。
布団に横たわる小さな体は、尋常ならざる熱を発し、呼吸は浅く、時折、ひゅう、ひゅう、と隙間風めいた音を立てる。
曼荼羅華の痺れと激痛との狭間を、その心は当てどなく漂っていた。
「……わか、さま……あつい……」
どこも見ていない目で、うわ言をこぼす。
「……い……てるの、あたし……」
「生きている。……死なせは、せぬ」
汲みたての井戸水で絞った手拭いで額を拭い、左の手を、強く握る。
「わか……ごめんな、さい……あたし……」
閉じきらぬ目尻から、涙が、こぼれ落ちた。
*
三日。
高熱と、うわ言が続いた。
その間、私は片時も枕元を離れなかった。
――そして。
長雨が上がり、雲の切れ間から弱い夕日の差した、日暮れ。
小夜が、目を覚ました。
右腕の晒に目を落とし、それから、恐る恐る、私を見る。
まだ、夢と現の境にいる目だった。
「……若様……あたし、生きてる」
「ああ。生きている」
血の滲んだ晒を新しいものへ替えながら、答える。
傷は、酷い。
引き攣れた痕は、生涯、消えまい。
「ごめんなさい、若様……。あたし、どじだから……」
小夜が、泣き出した。
痛みの涙ではない。
――詫びの、涙だ。
「……謝らずとも、よい」
巻き終えたばかりの右腕を、わざと、強く掴む。
びくり、と、細い肩が跳ねた。
「見よ、小夜。この傷を」
大きな瞳を、真っ直ぐに見つめる。
その右手を両の手で包み、耳元で、囁くように告げた。
「この傷はな、呪いの痕ではない。私が、私の意で、お前の体に刻んだ――『焼印』だ」
「……やき、いん……」
「そうだ。馬や牛に、焼印を押すのと同じ。この印がある限り、お前は、私の持ち物。竹中の掟にも、神の理にも、指一本、触れさせぬ。……お前の命は、私の物となった」
ひどく、歪んだ理屈であった。
前世の私が聞けば、唾棄したであろう――傲慢な、詭弁。
「小夜。勝手に死ぬことは、許さぬ。処分されることも、だ。……私が許すまで、私の側で、生き抜きなさい」
小夜は、呆然と私を見ていた。
やがて、その瞳から大粒の涙が、ぼろぼろと溢れ出す。
「……はいぃ」
焼かれたばかりの右腕で、私の手を、握り返してくる。
晒の下は、まだ生焼けの肉のはずだ。
握れば、痛む。
――それでも、力の限りに。
「あたしは、若様のものです。……この傷も、命も、ぜんぶ」
泣き笑いの顔で、小夜は、深々と頭を下げた。
その頭を、不器用に撫でる。
(惨い詭弁でしか、この娘の生を繋げなかった。だが……)
私は、気づいていた。
年端もゆかぬ娘が、おのれの腕を焼いた当の相手に、命まで差し出すと即答する――その、歪さに。
美しい忠義では、ない。
打たれて育った子供は、焼印を押した、その手にこそ縋りつく。
飼われることと、救われることの、見分けが――つかぬのだ。
(小夜……許せ)
前世で、娘を救えなかった手。
祈ることしか、できなかった手。
今世のこの手は――人を焼き、傷を刻み、首輪を嵌めてでも、生を繋ぎ止める道を選んだ。
おのれの業を呑み込んで、細い肩を、抱き寄せる。
(……これで、いい)
繰った雨戸の外に、夕焼けが、広がっていた。




