【八歳:焼き印の慈悲と共犯の傷】〜毒壺〜
時雨月。
連日の雨が、黒ずんだ屋根瓦を執拗に叩いている。
晩秋の雨は、いつも骨まで冷えた。
火の気がなければ、身の内まで湿り冷えきってしまう。
私は火鉢に炭を足し、赤く熾った火を確かめてから、文机に向かった。
北の土蔵から持ち出した一冊。
『呪禁医療覚書』と題された和綴じの古書を読み解いていた。
呪いと、病。
この世において、その二つの境は、どこに引かれているのか。
民俗学と生物学、二つの目で境を引き直すための退屈な作業。
――竹中家は、清浄を謳う。
白繭への奉仕。
巫女の純潔。
表向きは、穢れを何より嫌う神聖な家柄。
だが、清めるとは穢れを余所へ寄せることに他ならない。
上つ方より引き受けた生臭い政の穢れと、政敵を呪い殺すのに使われた後の、呪物の残骸。
それらを内々に封じ、始末するのもまた、この家の裏の役目であった。
*
屋敷の南西、渡り廊下の突き当たりにある忌庫。
この家の清浄を保つために切り離された、穢れの掃き溜め。
常は結界と分厚い和錠とで固く閉ざされているはずの、その方角から。
「――きゃっ」
短い悲鳴と、続けて陶器の砕ける音が響いたのは、昼下がりのことだった。
筆が、止まる。
(……小夜か)
近頃、厳蔵に言いつけられ、忌庫の周りを掃除させられていると聞いていた。
あそこには、触れれば障る物が山と眠っている。
私は筆を捨て、廊下を走った。
*
忌庫の戸は、開け放たれていた。
薄暗い庫の床に、赤黒い土器の破片が散らばっている。
その真ん中で、少女が、右腕を押さえてうずくまっていた。
「あ、あ……若様ぁ……ごめんなさい、あたし……」
小夜が、顔を上げる。
日に灼けたはずの顔からは、血の色が抜け落ち、唇が紫に震えていた。
必死に押さえている、その右腕。
砕けた壺から溢れ出た、黒い煙のようなものが絡みついている。
――否。
煙では、ない。
目を凝らせば、それは蟲であった。
煤のごとく黒い、目に捉えきれぬほど小さな蟲の、おびただしい群れ。
それが小夜の肌に喰らいつき、毛穴から肌の下へと潜り込んでいく。
「痛い……っ、痛いよぉ……熱いぃ……」
喰われた肌が、見る見る土気色に変わってゆく。
――蠱毒。
百の毒虫を一つ壺に封じ、共食いさせ、最後に残った一匹の怨みを種として練り上げる、大陸渡りの呪詛。
本来は土中深くに埋め、数十年をかけて気の抜けるのを待つべき代物だが。
封は破れ。さり、さり、と、砂を噛むような音を立てて小夜の手首から肘の方へと這い上がっていく。
薄皮の下を、墨が走るかのように。
(……速いっ)
蟲がこのまま這い進み、肘を越え、心の臓に至れば――終わる。
だが、この屋敷において、まことに恐ろしいのは。
「……何の騒ぎですっ」
母屋の方から。長い渡り廊下を伝い、幾つもの角を曲がって。
開け放たれたままの忌庫の戸口に、その声は冷たく届いた。
次いで、厳蔵の床を軋ませる足音が響く。
鼓動が、早鐘を打つ。
――穢れに触れた者は、穢れと見なす。
この家の、揺るがぬ掟。
ことに、封の破れた禁忌に触れた家畜・奉公人の類は、穢れが屋敷に及ぶのを防ぐため、悉く屠り、骸は灰燼となす。
篝火がこの光景を見れば、問答無用で厳蔵に命じ、小夜の首を刎ねさせる。
手当ての暇など……当然、与えられはせぬ。
小夜へと駆け寄り、震える体を強引に抱き起こした。
「若様ぁ……腕が……痛いよぅ……」
「――声を、立てるな」
その口を掌で塞ぎ、半ば引きずるようにして立たせた。
小夜の体を抱えるようにして、長い廊下を急ぐ。
途中、奉公人と鉢合わせれば、それだけで終わる。
息を殺し、曲がり角ごとに気配を窺いながら、進んだ。
ようやく、自室の戸に手をかける。
音を立てずに戸を閉ざし、心張り棒を支う。
戸一枚の、内と外。
僅かに引き延ばしただけの、仮初の棺桶。
「うぅ……っ、あぅ……」
小夜が、畳の上でのたうつ。
黒い痣は、すでに肘の手前まで広がっていた。
肉の、腐れゆく臭い。
(……どうする。解毒の法は、知らぬ。祓う霊力も、無い)
頭の奥が、焼き切れそうになる。
祈るか。
神仏に、すがるか。
刹那、前世の記憶が堰を切った。
——長い生涯でただ一つ、悔いと共に心の底へ封じた記憶。
*
『お父さん……痛いよぉ……熱いよぉ……』
昭和の初め。
古い家の、湿った畳の上。
五つになる、私の娘。
得体の知れぬ熱病に冒され、うわ言を漏らしながら引き攣る、小さな手。
あの頃の私は、いまだ学問を持たず、さりとて科学を信じ切ることもできぬ。ただの、愚かな父親だった。
親族に言われるがまま、医者ではなく祈祷師を呼んだ。
神棚に水を供え、ひたすらに祈った。
神様、どうか、お助けくださいと。
額を血の滲むほど床に擦りつけ、居りもせぬものにすがった。
——娘は、死んだ。
祈りが届かなかったのではない。
届く先が、初めから、無かったのだ。
私が手を擦り合わせている間に、熱は、娘の頭の中を焼き尽くしていた。
私が、殺したのだ——祈るという名の、何もせぬことによって。
*
胸の奥底で、老いた学者の魂が吼えた。
(祈るなっ。助けたくば)
小夜の腕を、覗き込む。
蠢く、黒い痣。
これは、呪いという得体の知れぬ何かではない。
「うぅ……っ、若様ぁ……」
黒い痣が、また一寸、肘に近づいた。
強く、瞼を閉じる。
闇の中で、思考だけを引きずり出し、見立てを練る。
——呪いの皮を一枚剥げば、その作りは、二重だ。
上に被さるのが、怨念という名の仕掛け。
だが、いま現に肉を蝕んでいる末端は、蟲どもが吐き出す、ただの毒の気にすぎぬはず。
陰陽師ならば、怨念そのものを清めの呪詞と霊力とで祓うのだろう。
だが、霊力なき私が頼れるのは、この知識のみ。
――火。
火で浄める、という古い神事。
あれは、ただの迷信ではない。
古人は、神の力と信じ火を焚いた。だが本当は、火そのものが毒の性を変え、その牙を折っていたに過ぎぬ。
信心が効いたのではない。火が、効いていたのだ。
廊下の奥で、床の軋む音がした。
一つ。二つ。
「……っ」
小夜の体が、大きく跳ねる。
黒い痣が、肘の関節を越えた。
猶予は、ない。
部屋の隅の火鉢へ、目をやる。
熾しておいた炭が、赤々と燃えていた。
私は、火箸代わりに使っていた太い鉄の箸を、燃え盛る炭の芯へと、深々と突き入れた。




