【八歳:焼き印の慈悲と共犯の傷】〜毒壺〜
時雨月。
連日の雨が、黒ずんだ屋根瓦を執拗に叩いている。
私は自室で、北の土蔵から持ち出した一冊――『呪禁医療覚書』と題された和綴じの古書を、読み解いていた。
呪いと、病。
この世界において、その二つの境は、どこに引かれているのか。
民俗学と生物学、二つの目で境を引き直すための、退屈な作業である。
――竹中家は、清浄を謳う。
白繭への奉仕。
巫女の純潔。
表向きは、穢れを何より嫌う神聖な家柄。
だが、清めるとは穢れを余所へ寄せることに他ならない。
上つ方より引き受けた、生臭い政の穢れ。
政敵を呪い殺すのに使われた後の、呪物の残骸。
それらを内々に封じ、始末するのもまた、この家の裏の役目であった。
屋敷の南西、渡り廊下の突き当たりにある、忌庫。
この家の清浄を保つために切り離された――穢れの、掃き溜め。
常は結界と分厚い和錠とで、固く閉ざされているはずの、その方角から。
「――きゃっ」
短い悲鳴と、続けて、陶器の砕ける音が響いたのは、昼下がりのことだった。
筆が、止まる。
(……小夜か)
近頃、厳蔵に言いつけられて、忌庫の周りを掃除させられている、と聞いていた。
あそこには、触れれば障る物が山と眠っている。
私は筆を捨て、廊下を走った。
忌庫の戸は、開いていた。
薄暗い庫の床に、赤黒い土器の破片が散らばっている。
その真ん中で、小夜が、右腕を押さえてうずくまっていた。
「あ、あ……若様ぁ……ごめんなさい、あたし……」
小夜が、顔を上げる。
日に灼けたはずの顔から血の色が抜け落ち、唇が、紫に震えていた。
必死に押さえた、その右腕。
砕けた壺から溢れ出た、黒い煙のようなものが、絡みついている。
――否。
煙では、ない。
目を凝らせば、それは蟲であった。
煤のごとく黒い、目に捉えきれぬほど小さな蟲の、おびただしい群れ。
それが小夜の肌に喰らいつき、毛穴から、肌の下へと潜り込んでいく。
「痛い……っ、痛いよぉ……熱いぃ……」
喰われた肌が、見る見る、土気色に変わってゆく。
――蠱毒。
百の毒虫を一つ壺に封じ、共食いさせ、最後に残った一匹の怨みを種として練り上げる、大陸渡りの呪詛。
本来は土中深くに埋め、数十年をかけて気の抜けるのを待つべき代物。
その封が、破れた。
長く飢えていた蟲が、新しい肉にありついたのだ。
さり、さり、と、砂を噛むような音を立てて、黒い痣が、手首から肘の方へと這い上がっていく。
皮の下を、墨が走るかのようだった。
(……速い)
蟲が肘を越え、心の臓に至れば――終わる。
だが、この屋敷において、まことに恐ろしいのは、毒ではない。
「……何の騒ぎです」
遠く母屋の方から、冷えた声が響いた。
――篝火。
次いで、厳蔵の、重い足音。
鼓動が、早鐘を打つ。
竹中家には、掟がある。
穢れに触れた者は、穢れと見なす。
ことに、封の破れた禁忌に触れた家畜・奉公人の類は、穢れが屋敷に及ぶのを防ぐため、悉く屠り、骸は灰燼となす。
篝火がこの光景を見れば、問答無用で厳蔵に命じ、小夜の首を刎ねさせるだろう。
手当ての暇など、与えられはせぬ。
小夜に駆け寄り、震える体を強引に抱き起こす。
「若様ぁ……腕が……痛いよぅ……」
「――声を立てるな」
その口を掌で塞ぎ、半ば引きずるようにして、自室へ運び込む。
音を立てずに戸を閉て、心張り棒を支う。
戸一枚の、内と外。
だが、これは隠れ家ではない。
刃が届くまでの時を、僅かに引き延ばしただけの――仮初の、棺桶。
「うぅ……っ、あぅ……」
小夜が、畳の上でのたうつ。
黒い痣は、すでに肘の手前まで広がっていた。
腐った果実に似た、甘い臭いが鼻をつく。
――肉の、腐れてゆく臭い。
(……解毒の法は、知らぬ。祓う霊力も、無い)
頭の奥が、焼き切れそうになる。
祈るか。
神仏に、すがるか。
――否。
刹那、前世の記憶が、堰を切った。
長い生涯でただ一つ、悔いと共に、心の底へ封じた記憶。
『お父さん……痛いよぉ……熱いよぉ……』
昭和の初め。
古い家の、湿った畳の上。
五つになる、私の娘。
得体の知れぬ熱病に冒され、うわ言を漏らしながら引き攣る、小さな手。
あの頃の私は、いまだ学問という刃を持たず、さりとて科学を信じ切ることもできぬ――ただの、愚かな父親だった。
親族に言われるがまま、医者ではなく、祈祷師を呼んだ。
神棚に水を供え、ひたすらに祈った。
――神様、どうか、お助けくださいと。
額を、血の滲むほど床に擦りつけ、居りもせぬものにすがった。
娘は、死んだ。
祈りが届かなかったのではない。
届く先が、初めから、無かったのだ。
私が手を擦り合わせている、その間に。
熱は、娘の頭の中を焼き尽くしていた。
私が、殺したのだ。
祈るという名の――何もせぬことによって。
魂の奥底で、老いた学者が吼える。
(祈るな。助けたくば――)
小夜の腕を、覗き込む。
蠢く、黒い痣。
これは、呪いという得体の知れぬ何かではない。
呪いの皮を一枚剥げば、その作りは二重だ。
上に被さるのが、怨念という名の仕掛け。
だが、いま現に肉を蝕んでいる末端は――蟲の生み出す、ただの蛋白質の毒であるはず。
陰陽師ならば、怨念そのものを清めの呪詞と霊力とで祓うのだろう。
だが、霊力なき私が頼れるのは、知識のみ。
毒の通り道を熱で焼き切れば、呪いの足も、そこで止まる筈だ。
毒が蛋白質である限り――『火で浄める』という神事は、とりもなおさず、熱でその性を変え、毒を毒でなくす、ということに他ならない。
祈りなど、要らぬ。
毒の走る先へ、直に、熱を叩き込めばよい。
部屋の隅の火鉢へ、目をやる。
雨の冷えを凌ぐために熾しておいた炭が、赤々と燃えていた。
私は、火箸代わりに使っていた太い鉄の箸を――燃え盛る炭の、芯へと、深々と突き入れた。




