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【怪体新書】〜民俗学者、異世界で本物と出逢う  作者: 可和
第一章:竹中家の繭

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【八歳:日向の少女と日陰の人形】 〜饅頭〜

 縁側でのササメとの一件から、数日が経った――正午のこと。

 

 私はこの日も、縁側で書物の編みに、没頭していた。

 

 遠くから――考えを乱すほど、ひどく特徴のある足音が、聞こえてくる。

 

 ――同い年の、下女の、足音。

 

 (……小夜(さよ)か)

 

 確か、厳蔵にこの屋敷へ連れてこられたのは、四年前。

 

 貧しい農家の口減らしに、二束三文で買われたと、聞いている。

 

 この家での立場は――誰よりも、軽く、(もろ)い。


 厳蔵の足音が聞こえただけで、その肩が強張るのを、幾度も見てきた。

 

 にも、かかわらず――。

 

 バタバタと、板の廊下を踏み抜かんばかりの、無作法な足音が近づく。

 

 暗い廊下の向こうから、雑巾を片手に、走ってくる娘。

 

 「若様っ。またそんな難しいお顔で本を読んで――本とお顔が、くっついちゃいますよ」

 

 わけの分からぬことを言いながら、小夜は私の前で急に止まり、裾が乱れるのも構わず、腰に手を当てて、仁王立ちになった。

 

 日に灼けた、健やかな肌。

 

 短く切り揃えた、髪。

 

 そして何より――黒く、大きく、芯の強い瞳が、私を、まっすぐに射抜いてくる。

 

 「小夜。廊下は走るなと、厳蔵に叱られるぞ」

 

 「平気ですよ。お差配(さはい)様は今、桑の葉取りで、山に行ってますから。それより若様、お天気いいんですから、外に出ましょうよ。裏の柿の木、もう実がなってますよ」

 

 小夜は、屈託なく笑う。

 

 その笑みと――その体から漂う、土と日向の匂いに触れると。


 淀んだ空気が、一瞬で晴れるような心地がした。

 

 「私は、忙しい。この辺りの草木について、調べねば……」

 

 「また、小難しいことして……。若様、目から本が生えますよ」

 

 小夜は頬をいっぱいに膨らませ、私の手から、強引に古文書を取り上げた。

 

 その指先には、いくつもの、あかぎれ。


 短く切った爪の間には、土が入り込んでいる。

 

 朝から晩まで、冷たい水で雑巾を絞っている――その、証だろう。

 

 「返しなさい、小夜」

 

 「返しません。……あ、そうだ。これ」

 

 懐をごそごそ探って――半紙に包んだ何かを、取り出す。

 

 開くと、潰れたような形の、蒸し饅頭が、一つ。

 

 「勝手場のおばばに、貰ったんです。あたしと若様の分、半分こ、しましょ」

 

 「……お前の昼餉(ひるげ)だろう。私は、腹が減っておらぬ」

 

 「嘘です。さっき、お腹鳴ってましたよ。ほら、口、開けて」

 

 饅頭を無造作に半分に割り、湯気の立つ方を、私の口元へ、突き出す。

 

 (……この娘は、私の機嫌など、お構いなしに)

 

 拒んでも無駄なことは、この四年の付き合いで、よく知っている。

 

 小さく、ため息をついて――観念し、その素朴な甘味を、口に含んだ。

 

 「……美味いな」

 

 「えへへ。お腹空いてるときのお饅頭は、この世で一番、旨いんですから」

 

 小夜は、自分の分を大きく頬張りながら、嬉しそうに、目を細めた。

 

 その視線が、私の顔に、熱っぽく注がれているのを――気まずく、受け止める。

 

 「あらあら。楽しそうね」

 

 ふわり、と。

 

 日向のこの場へ、再び――練香の匂いを纏った影が、落ちた。

 

 いつの間にか、ササメが、背後に立っている。

 

 先日、私に見せた、あの悲痛な顔は消え。


 今は――優しい姉の、顔をしていた。

 

 「あ、ササメ様っ」

 

 「小夜。半兵衛と、お饅頭? いいなぁ。私も、混ぜて」

 

 姉は着物の裾を直しながら、小夜の隣に座ると――私と小夜の様子を、微笑ましげに見つめた。

 

 その穏やかな笑みを見て、私は、気づかれぬほどの安堵を、吐き出す。

 

 「ササメ様のは、ないですよ。これは、若様とあたしの分なんですから」

 

 「えぇ、意地悪。なら、半兵衛のを……一口、貰うわね」

 

 不意に、ササメが顔を近づけ――私の口元に残った、小豆の餡を、細い指で、すくい取る。

 

 そして、その指を、自らの桜色の唇に含み――艶やかに、ぺろり、と、舐め取った。

 

 「姉上……行儀が、悪い」

 

 たしなめると、ササメは、あどけなく笑う。

 

 一見すれば――無邪気な、姉弟の戯れ、かもしれぬ。

 

 だが、その所作に、私は、強い引っかかりを覚えた。

 

 その指先に込められた、不自然な熱。


 私を見つめる、一瞬の――湿りを帯びた、瞳。

 

 心の臓の奥が、冷たく、鳴る。

 

 「……ササメ、様?」

 

 隣で見ていた小夜の顔から、すっと、笑みが、消えた。

 

 「あ、あぁ……ササメ様っ。若様の食べかけなのに、お行儀、悪いですよ。それに、お口の周りが……なんか、変に、赤いですし」

 

 ――威勢よく、小夜が、声を上げる。

 

 (……気づかぬ振りをする、ほかない)

 

 とっさの機転だったのか。


 それとも、小夜なりに、何かを察してのことだったのか――

 

 ともあれ、その大声は、思わぬところで功を奏した。

 

 「あら、いやだ」

 

 ササメが、ふっと、頬に手を当てる。

 

 その瞬間――指先に纏わりついていた、あの不自然な熱が。


 すうっと、潮の引くように、消えていった。

 

 「ごめんなさいね、小夜。……はしたなかったわ」

 

 声の艶も、もう、ない。

 

 代わりに浮かんだのは――幼い子が悪戯を見咎められたような、決まりの悪い、笑み。

 

 先ほどまで私を射抜いていた、湿りを帯びた瞳は――もう、どこにもなかった。

 

 (……戻ったか)

 

 ほんの一瞬、姉の奥底から滲み出た『何か』は――再び、優しい姉の面の下へ、音もなく、沈んでいく。

 

 それが、安堵すべきことなのか。


 それとも――より、恐ろしいことなのか。

 

 私には、まだ、判じかねた。

 

 ただ、今は。

 

 この、辛うじて繕われた平穏を、壊さぬことだけを考える。

 

 「……姉上。小夜の饅頭が、無作法を咎めておりますよ」

 

 努めて、軽く。


 私は、そう言ってみせた。

 

 ササメが、きょとんと目を丸くし――それから、くすり、と笑う。

 

 「まあ。お饅頭に、叱られてしまったわ」

 

 「そうですそうです。お饅頭の神様が、怒ってるんですからね」

 

 小夜が、すかさず、胸を張った。

 

 「饅頭の……。お前は、何でも神にするのか」

 

 「だって、美味しいものは、ぜんぶ神様ですもん」

 

 その、あまりに屈託のない理屈に――張りつめていた何かが、ふっと、ゆるむ。

 

 ササメが、口元を押さえて、肩を揺らした。

 

 私も、気づけば――口の端を、緩めていた。

 

 三人の、こぼれ笑いが、縁側に響く。

 

 繭のように閉ざされたこの屋敷で――この縁側だけが、辛うじて、日々の形を保とうとしていた。

 

 穢れを引き受ける、姉。


 無垢な、奉公人の娘。


 そして――傍観を決め込む、私。

 

 身分も、定めも違う――歪で、奇妙な、三角。

 

 小夜の明るさが、ササメの闇を照らし。


 その同じ明るさが、冷えた私に、人の温もりというものを教えてくる。

 

 この脆い釣り合いが、願わくば、今しばし続いてほしいと願う一方で――おのれの卑しさから、目を背けることも、できなかった。

 

 (卑しさ……か)

 

 この狂った屋敷でただ一人、安全なところから、眺めているだけの、男。

 

 年端もいかぬ娘たちの、その献身を前に――老いさらばえた心が、自己嫌悪の沼へと、引きずられていく。

 

 それでも、私は――。

 

 黙して、湯呑みの底に揺れる、おのれの影を、見つめていた。

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