【八歳:日向の少女と日陰の人形】 〜饅頭〜
数日が経った、正午のこと。
私はこの日も、縁側で書物の編みに没頭していた。
しかし、いかに難解な古字を脳に流し込もうとも——姉の、あの所作が。
胸の奥でわだかまり、追う文字の裏側で染みのように滲み出しては、離れなかった。
*
遠くから、考えを乱すほど、ひどく特徴のある足音が聞こえてくる。
同い年の、下女の足音。
(……小夜か)
確か、厳蔵にこの屋敷へ連れてこられたのは、四年前。
貧しい農家の口減らしに、二束三文で買われたと聞いていた。
小夜の立場は、誰よりも軽く、脆い。
厳蔵の足音が聞こえただけで、その肩が強張るのを幾度も見てきた。
にも、かかわらず――
バタバタと、板の廊下を踏み抜かんばかりの無作法な足音が近づく。
暗い廊下の向こうから、雑巾を片手に走ってくる娘。
「若様っ。またそんな難しいお顔で本を読んで。本とお顔が、くっついちゃいますよ」
わけの分からぬことを言いながら、小夜は私の前で急に止まり、裾が乱れるのも構わず、腰に手を当てて仁王立ちになった。
日に灼けた健やかな肌。
短く切り揃えた髪。
そして何より。
黒く、大きく、芯の強い瞳が、私を真っ直ぐに射抜いてくる。
「小夜。廊下は走るなと、厳蔵に叱られるぞ」
「平気ですよ。お差配様は今、桑の葉取りで山に行ってますから。それより若様、お天気いいんですから、外に出ましょうよ。裏の柿の木、もう実がなってますよ」
小夜は、屈託なく笑う。
その笑みと、体から漂う土と日向の匂いに触れると、淀んだ空気が一瞬で晴れるような心地がした。
「私は、忙しい。この辺りの草木について、調べねば……」
「また、小難しいことして……。若様、目から本が生えますよ」
小夜は頬をいっぱいに膨らませ、私の手から強引に古文書を取り上げた。
その指先には、いくつもの、あかぎれ。
短く切った爪の間には、土が入り込んでいる。
「返しなさい、小夜」
「返しません。……あ、そうだ。これ」
懐をごそごそ探って、半紙に包んだ何かを取り出す。
開くと、潰れたような形の蒸し饅頭が、一つ。
「勝手場のおばばに貰ったんです。あたしと若様の分、半分こ、しましょ」
「……お前の昼餉だろう。私は、腹が減っておらぬ」
「嘘です。さっき、お腹鳴ってましたよ。ほら、口、開けて」
饅頭を無造作に半分に割り、湯気の立つ方を私の口元へ、突き出す。
(……この娘は、私の機嫌など、お構いなしに)
拒んでも無駄なことは、この四年の付き合いでよく知っている。
小さくため息をついて観念し、その素朴な甘味を、口に含んだ。
「……美味いな」
「えへへ。お腹空いてるときのお饅頭は、この世で一番、旨いんですから」
小夜は、自分の分を大きく頬張りながら、嬉しそうに目を細めた。
その視線が、私の顔に熱っぽく注がれているのを。気まずく、受け止める。
「あらあら。楽しそうね」
ふわり、と。
日向のこの場へ、再び、練香の匂いを纏った影が落ちた。
いつの間にか、ササメが背後に立っている。
先日、私に見せた悲痛な顔は消え。今は、優しい姉の顔をしていた。
「あ、ササメ様っ」
「小夜。半兵衛と、お饅頭? いいなぁ。私も、混ぜて」
姉は着物の裾を直しながら小夜の隣に座ると、私たちの様子を、微笑ましげに見つめた。
その穏やかな笑みを見て、気づかれぬほどの安堵を、吐き出す。
「ササメ様のは、ないですよ。これは、若様とあたしの分なんですから」
「えぇ、意地悪。なら、半兵衛のを……一口、貰うわね」
不意に、ササメが顔を近づけ。
私の口元に残った小豆の餡を、細い指で、すくい取る。
そして、その指を、自らの桜色の唇に含み。艶やかに、ぺろり、と、舐め取った。
「姉上……行儀が、悪い」
たしなめると、姉は、あどけなく笑った。
一見すれば、無邪気な姉弟の戯れかもしれぬ。
だが、その所作に、私は強い引っかかりを覚えた。
その指先に込められた不自然な熱と、私を見つめる湿りを帯びた、瞳。
心の臓の奥が、冷たく鳴る。
「……ササメ、様?」
隣で見ていた小夜の顔から、すっと、笑みが消えた。
「あ、あぁ……ササメ様っ。若様の食べかけなのに、お行儀、悪いですよ。それに、お口の周りが……なんか、変に赤いですし」
威勢よく、小夜が声を上げる。
(……気づかぬ振りをする、ほかない)
とっさの機転だったのか。
それとも、小夜なりに何かを察してのことだったのか、ともあれ、その大声は思わぬところで功を奏した。
「あら、いやだ」
ササメが、ふっと、頬に手を当てる。
「ごめんなさいね、小夜。……はしたなかったわ」
声の艶が、なくなる。
代わりに浮かんだのは、幼い子が悪戯を見咎められたような、決まりの悪い笑み。
先ほどまで私に絡みついていた、湿りを帯びた瞳は——もう、どこにもなかった。
(……戻ったか)
姉の奥底から滲み出た『何か』は、再び、優しい面の下へ、沈んでいったのだろう。
それが、安堵すべきことなのか。
それとも、より、恐ろしいことなのか。
私には、まだ、判じかねた。
ただ、今は。
この、辛うじて繕われた平穏を、壊さぬことだけを考える。
「……姉上。小夜の饅頭が、無作法を咎めておりますよ」
努めて、軽く。そう言ってみせた。
ササメが、きょとんと目を丸くし。
それから、くすり、と笑う。
「まあ。お饅頭に、叱られてしまったわ」
「そうですそうです。お饅頭の神様が、怒ってるんですからね」
小夜が、すかさず、胸を張った。
「饅頭の……。お前は、何でも神にするのか」
「だって、美味しいものは、ぜんぶ神様ですもん」
その、あまりに屈託のない理屈に、張りつめていた何かが、ふっと、ゆるむ。
姉が、口元を押さえて肩を揺らす。
気づけば、私も口の端を緩めていた。
三人の、こぼれ笑いが、縁側に響く。
繭のように閉ざされたこの屋敷で、この縁側だけが、辛うじて日々の形を保とうとしていた。
穢れを引き受ける、姉。
無垢な、奉公人の娘。
そして。傍観を決め込む、私。
身分も、定めも違う。歪で、奇妙な、三脚。
小夜の明るさがササメの闇を照らし、私に、人の温もりというものを教えてくれる。
この脆い釣り合いが、願わくば、今しばし続いてほしいと願う一方で。
おのれの卑しさから、目を背けることもできなかった。
(卑しさ……か)
この狂った屋敷でただ一人、安全なところから眺めているだけの、男。
年端もいかぬ娘たちの、その献身を前に。
老いさらばえた心が、自己嫌悪の沼へと引きずられていく。
それでも、私は――と。
黙して、湯呑みの底に揺れる、おのれの影を、見つめていた。




