いつも通りの、いつもと違う
発症から五日目の土曜日。母さんが大きな紙袋を三つ抱えて帰ってきた。
「蒼、ちょっと来て」
嫌な予感しかしなかった。
リビングのテーブルに、服が並べられていく。淡い水色のカーディガン。白いブラウス。それから、紺色のふわっとしたスカート。
「……何これ」
「外出用。いつまでもお父さんのパーカーってわけにいかないでしょ」
「パーカーでいいって」
「よくない。袖、手が出てないじゃない」
言い返せなかった。この五日間、俺は父さんのパーカーと、紐をぎりぎりまで縛ったジャージで過ごしていた。自分の服は全部大きすぎて、ジーンズは腰で止まらなかった。
「ジーンズ買ってくれればいいだろ。女物でもいいから」
「買ったわよ。ほら」
母さんが紙袋から細身のジーンズを出す。少しほっとした。
「でもね、一着くらいはちゃんとしたのも持っておきなさい。病院の先生にも会うし、親戚にだって説明しなきゃいけないんだから」
「スカートは絶対はかない」
「膝丈よ。普通の」
「長さの問題じゃねえんだよ」
俺は男だ。十七年間ずっと男だった。たった五日で、スカートなんかはけるわけがない。
母さんは黙って、スカートを畳み直した。
その手が、少し震えていた。
「……ごめんね」
「は?」
「何してあげたらいいのか、お母さんも分からないの。だから、とりあえず服くらいはって思って」
母さんの目が赤くなっていた。
この五日間、母さんは毎晩遅くまでパソコンに向かっていた。TS症の情報を調べ、学校とやりとりし、大阪の父さんと長電話していた。俺はそれを知っていた。
知っていて、何も言わなかった。
「……一回だけな」
口から出たのは、自分でも意外な言葉だった。
「一回着るだけ。似合わなかったら、もう二度と言うなよ」
母さんは泣き笑いみたいな顔で、何度もうなずいた。
*
自分の部屋で着替えた。
鏡は見なかった。見たら負けだと思った。
スカートの裾が膝のあたりで揺れる。歩くたびに布がまとわりついて、落ち着かない。足元がすうすうして、そこにちゃんと服を着ている気がしなかった。
俺が、これを着ている。
それだけで、顔から火が出そうだった。
リビングのドアを開けると、母さんが「あら」と声を上げた。ソファでスマホをいじっていた凛が顔を上げる。
凛は俺を上から下まで眺めて、ぼそっと言った。
「……普通に女子じゃん」
その一言が、いちばん効いた。
似合わないと笑われるほうが、まだましだった。笑われれば「だろ?」と言って脱げる。でも凛は笑わなかった。本当に、ただ普通だという顔をしていた。
「脱ぐ」
「えー、もったいない」
「うるせえ」
部屋に逃げ帰り、ジーンズとパーカーに着替える。スカートはハンガーにかけて、クローゼットのいちばん奥に押しこんだ。
扉を閉めても、さっきの凛の声が耳に残っていた。
*
月曜日。俺は学校に戻った。
女子の制服は採寸が間に合わず、届くのは来週になるという。それまでは学校指定のジャージで登校していいことになった。正直、助かった。
朝のホームルームで、担任が短く説明した。病気であること。本人は篠原蒼で変わらないこと。からかったりしないこと。
教室は静かだった。三十人分の視線が、俺に刺さっていた。
「じゃあ篠原、何か一言」
「……篠原です。見ての通りです。よろしく」
誰も笑わなかった。いつもなら誰かが茶化すところだ。その沈黙が、いちばんきつかった。
名簿の性別欄は書き換えられていた。体育は女子と一緒になった。休み時間、前は普通にしゃべっていた男子たちが、俺の机の前で一瞬だけ立ち止まって、そのまま通りすぎていった。
「篠原さん、プリント」
前の席のやつが、ぎこちなく紙を回してくる。昨日まで「篠原」と呼び捨てにしていたやつだ。
さん、か。
放課後、体育館に顔を出した。顧問は気まずそうに頭をかいた。
「篠原、その、しばらくはマネージャーってことで……どうだ」
分かっていた。女子が男子バスケ部の練習に混ざるわけにはいかない。分かっていたのに、ボールの音が響く体育館で、俺だけがコートの外に立っていた。
ベンチでスコアブックを開く。ペンを持つ手が、知らない誰かの手みたいに小さかった。
練習が終わり、部員たちがばらばらと帰っていく。誰も俺に話しかけなかった。悪気がないのは分かっている。どう接していいか分からないだけだ。
片付けをしていると、背後から足音が近づいてきた。
「蒼」
振り返ると、隼人がいた。
汗だくの顔で、いつもと同じぶっきらぼうな目をしていた。
「おう」
「スコア、ありがとな」
「仕事だからな」
それだけの会話なのに、喉の奥がゆるんだ。今日初めて、ちゃんと名前で呼ばれた気がした。
隼人が手を上げた。いつもの癖だ。練習のあと、こいつは必ず俺の肩をばしっと叩く。
その手が、俺の肩の手前で止まった。
ほんの一瞬だった。隼人は何事もなかったように手を下ろして、ボールかごを押していった。
「帰るぞ」
「……おう」
俺は隼人の背中を見ながら、止まった手のことを考えていた。
隼人は何も変わらない。そう思っていた。
でも、あの手は止まった。
俺の肩が、叩いていい肩じゃなくなったからだ。




