朝、俺じゃなかった
目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
六月の朝は、窓の外がもう白い。いつもなら二度寝を決めこむところだが、喉がやけに渇いていた。
「……あー」
声を出して、固まった。
自分の声じゃなかった。風邪で枯れたとか、そういう話ではない。高くて、細くて、知らない誰かが俺の口を借りてしゃべったみたいだった。
「あー、あー。……は?」
何度やっても同じだった。
布団をはねのけて洗面所に向かう。足元がふらついた。廊下がいつもより長く感じる。
鏡の前に立って、俺は息を止めた。
知らない女の子が、こっちを見ていた。
寝ぐせのついた黒い髪が、肩まで伸びている。目だけはどこか見覚えがあった。たぶん母さんに似ている。それ以外は、何ひとつ俺じゃなかった。
右手を上げる。鏡の中の女の子も右手を上げる。
「……嘘だろ」
鏡の中の女の子も、同じ顔でそう言った。
*
母さんの悲鳴で、家じゅうが起きた。
「蒼!? 蒼なの!?」
「俺だよ! 俺が聞きてえよ!」
怒鳴り返した声まで高くて、自分で余計に混乱する。妹の凛が部屋から顔を出し、俺を見て三秒黙った。
「……誰?」
「兄ちゃんだよ」
「は?」
中三の妹にそんな目で見られる日が来るとは思わなかった。
父さんは単身赴任で大阪にいる。母さんは震える手で電話をかけ、そのまま俺を車に押しこんだ。パジャマの上に父さんのパーカーを羽織らされる。袖が手の甲まで隠れて、それがまた妙に悔しかった。
*
大学病院の待合室は、朝からやけに混んでいた。
あちこちで検査をされ、血を抜かれ、よく分からない機械に寝かされた。昼すぎになって、白髪の医者が俺と母さんを診察室に呼んだ。
「後天性性別転換症。いわゆるTS症ですね」
ニュースで聞いたことはあった。何十万人に一人とか、そういう病気だ。原因はまだ分かっていない。ある朝突然、体の性別が入れ替わる。
「体に害はありません。むしろ、とても健康です」
医者は穏やかに言った。
「戻るんですか」
俺が聞くと、医者は少しだけ間を置いた。
「今のところ、自然に戻った例は報告されていません」
母さんが俺の手を握った。握り返そうとして、自分の手が母さんの手と同じくらいの大きさになっていることに気づいた。
「研究は進んでいます。何か分かれば、必ずお知らせします」
それはつまり、今は何も分からないということだ。
*
帰りの車の中で、母さんはずっとしゃべっていた。
学校には連絡する。しばらく休んでいい。服も買わなきゃね。大丈夫、蒼は蒼だから。
全部聞こえていたけど、何も頭に入ってこなかった。
窓の外を、制服姿の高校生が自転車で走っていく。昨日まで、俺もあっち側だった。
家に着くと、凛がリビングで待っていた。何か言いたそうな顔をして、結局「……おかえり」とだけ言った。
「ただいま」
答えた声は、やっぱり知らない女の子の声だった。
*
夜。
自分の部屋のベッドに転がって、天井を見ていた。部屋は何も変わっていない。バスケ雑誌も、脱ぎっぱなしのジャージも、壁のポスターも昨日のままだ。
変わったのは、俺だけだった。
スマホには通知がたまっていた。クラスのグループに「篠原今日休み?」と流れている。部活のグループでは、顧問が「篠原は体調不良でしばらく休む」と書いていた。
何て返せばいいのか分からなかった。
女になりました。病気です。戻れないかもしれません。
そんなこと、どうやって打てばいい。
画面を閉じかけたとき、一件だけ個別のメッセージが届いた。
真壁隼人。
小学校からの腐れ縁で、同じバスケ部で、たぶん世界でいちばん俺のことを知っているやつだ。
学校からは、もう何か聞いているのかもしれない。噂ぐらいは回っているはずだ。
俺は少しだけ指を止めてから、メッセージを開いた。
『明日、朝練来んの?』
それだけだった。
大丈夫か、も。何があった、も。聞いたぞ、もなかった。
昨日までと何も変わらない、いつもの隼人の文面だった。
気づいたら、笑っていた。笑いながら、目の奥が熱くなった。
今日いちばん泣きそうになったのが、この一行だなんて。
『行けねえよ、バカ』
そう打って、少し迷って、もう一行足した。
『しばらく休む。ちょっと、いろいろあって』
既読はすぐについた。
返事は、なかなか来なかった。
スマホを胸に置いて目を閉じる。もう寝ようと思ったところで、短い振動が来た。
『そっか』
『戻ってきたら、1on1な』
戻ってきたら。
その「戻る」が、学校のことなのか、それとも別のことなのか。隼人がどこまで知っているのかは分からなかった。
でも、そんなことはどうでもよかった。
『負けねえからな』
送信して、スマホを伏せる。
知らない女の子の声で、俺は小さく「おやすみ」と言った。
明日の朝、目が覚めたら全部夢だった。
そんなことはないと、もう分かっていた。




