女子の輪
女子の制服が届いたのは、復帰して二週目の月曜日だった。
紺のブレザーに、チェックのスカート。それから、胸元に結ぶ赤いリボン。
リボンだけが、どうしても結べなかった。
「なんでだよ……」
洗面所の鏡の前で、俺は十分以上格闘していた。説明書どおりに輪を作って、くぐらせて、引っぱる。なのに、できあがるのは毎回つぶれた蝶みたいな塊だった。
ネクタイなら目をつぶってでも締められる。中学からずっとそうだった。それなのに、この赤い布一本に完全に負けていた。
「お兄ちゃん、遅刻するよー」
凛が廊下から顔を出す。
「凛、これ結べるか」
「無理。うちの中学ネクタイだもん」
母さんはもう仕事に出ていた。時計を見ると、家を出る時間を五分すぎている。
「……もういい」
俺はぐちゃぐちゃのリボンのまま、鞄をつかんで玄関を飛び出した。
*
教室に入ると、何人かの視線がリボンに集まった。
分かっている。自分でもひどいと思う。でも、もう直す気力もなかった。席について、鞄から教科書を出す。
「篠原さん」
声をかけられて顔を上げると、女子が一人、俺の机の横に立っていた。
早瀬ことり。同じクラスだが、ほとんど話したことはない。いつも教室の真ん中で、よく笑っている女子だ。
「それ、自分で結んだ?」
「……そうだけど」
「だよね。すごいことになってる」
早瀬はあっさり言って、手を差し出した。
「貸して」
「は?」
「リボン。結び直してあげる。ちょっとじっとしてて」
断る間もなかった。早瀬は俺のリボンをするりとほどくと、手早く輪を作って形を整えた。三秒くらいの出来事だった。
「はい、完成」
胸元を見下ろすと、ちゃんとリボンの形をしていた。
「……どうやったんだ、今の」
「慣れだよ、慣れ。あとでコツ教えたげる。あ、ついでに」
早瀬は自分の手首から黒いヘアゴムを外した。
「髪、ちょっと失礼」
俺が何か言う前に、肩まで伸びた髪が後ろでまとめられていた。首筋に風が通って、視界がすっきりする。
「伸びた髪、邪魔でしょ。結んどくとだいぶ楽だよ」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
早瀬は笑って、自分の席に戻っていった。
俺はしばらく、首の後ろのヘアゴムを指でさわっていた。
*
昼休み。前は隼人や部活の男子と、購買のパンを食べていた。
でも、ここ一週間はずっと一人だった。男子の輪に入っていくと、会話が一瞬止まる。それが嫌で、自分の席で弁当を広げるようになった。
「篠原さん、一緒に食べよ」
早瀬だった。後ろに女子が二人いる。佐伯と宮下だ。
「いや、俺は――」
「いいからいいから。机くっつけるね」
気づいたら、四つの机が島になっていた。
女子の昼休みは、とにかく速かった。
昨日のドラマ。駅前に新しくできた店。数学の小テストがやばい。担任の寝ぐせ。話題が五秒ごとに変わって、どこで相づちを打てばいいのか分からない。
「篠原さんは?」
「え、何が」
「だから、夏休みどっか行くの?」
「……部活」
「マネージャーでしょ? えらーい」
佐伯が笑う。悪意がないのは分かる。でも、どう返せばいいのか分からなかった。
男同士なら、黙ってパンをかじっていれば済んだ。ここでは、黙っていると「大丈夫?」と顔をのぞきこまれる。距離が近い。近すぎて、どこを見ていいか分からない。
早瀬がさりげなく話題を変えた。
「篠原さんってさ、バスケ上手かったんでしょ。中学のとき県選抜だったって聞いた」
「選抜っていうか、候補止まり」
「それでもすごいじゃん」
早瀬が話を振ってくれるたびに、少しずつ息ができるようになった。
弁当が半分くらいになったころ、宮下が身を乗り出した。
「ねえ、ずっと聞きたかったんだけど」
「何」
「篠原さんって、真壁くんとどうなの?」
箸が止まった。
「……どうって?」
「仲いいじゃん。昨日も一緒に帰ってたし」
「幼なじみだからな。小学校から一緒だし」
「えー、それだけ?」
「それだけって何だよ」
「だって真壁くん、篠原さんのこと見てるもん」
佐伯と宮下が顔を見合わせて、くすくす笑った。
「見てねえよ。あいつはただ心配性なだけで」
「ふーん」
ふーん、の言い方が完全に信じていなかった。
俺は弁当をかきこんだ。味がしなかった。
隼人は親友だ。それ以上でも以下でもない。俺が女になっても、それは変わらない。変わるわけがない。
なのに、宮下の言葉が頭から離れなかった。
真壁くん、篠原さんのこと見てるもん。
*
午後の授業中、つい窓際の席を見てしまった。
隼人は頬杖をついて、黒板を眺めていた。いつもどおりの眠そうな横顔だ。
ほら、見てない。
そう思った瞬間、隼人がこっちを向いた。
目が合った。
隼人はすぐに目をそらした。何事もなかったみたいに、また黒板に向き直る。
俺も慌てて前を向いた。
心臓がうるさかった。
なんでだよ。
ただ親友と目が合っただけだ。今まで何千回もあったことだ。
それなのに俺は、放課後のチャイムが鳴るまで、一度も窓際を見られなかった。




