福止市の怪異
社長室。
静まり返った室内。
氷室は、床に落ちた一通の封筒を拾い上げた。
伊藤の退職届。
(……ほら、また、くしゃくしゃだ)
強く握り締めた跡。
迷い続けた跡。
氷室はしばらく、その紙を見つめていた。
やがて机へ戻る。
引き出しを開ける。
退職届を、丁寧にしまった。
「……預かっておく」
小さく呟く。
引き出しを閉める音だけが、社長室に響いた。
氷室はゆっくりと振り返る。
「鸚鵡返しの準備だ」
「……はい」
氷室は迷わず、倉持の番号を呼び出した。
コール音。
一度。
二度。
『――どうした』
「ああ。今日、鸚鵡返しが現れる場所が分かった」
短い沈黙。
『……誰だ』
「切り裂き魔だ。」
『伊藤か』
受話器の向こう。
カシン。
聞き慣れたライターの音が響く。
「知っていたのか」
『切られたからな』
「ああ……」
氷室は小さく息を吐く。
「報道されていた警察官は、お前だったのか」
『情けねえな』
煙を吐き出す音が聞こえた。
そして。
『……借りは返す。場所は』
「水族館だ。スカイ・アクアリウム・フクドメ。夕暮れ、そこへ現れる」
『分かった』
通話は、それだけで切れた。
氷室はスマートフォンを下ろす。
「白鳥」
「はい」
「行こう」
「時間がありません」
白鳥が腕時計へ目を落とす。
「16時55分です。」
氷室は静かに頷いた。
「……もう、夕暮れか」
二人は同時に社長室を飛び出した。
都内の喧騒を引き裂いて。
二人は再び、水族館へと戻ってきた。
すでに規制線が張られている。
「規制線の中には入らないでください」
聞き覚えのある声。
「……井上か」
「氷室さん、ご無沙汰しております」
井上が軽く敬礼する。
「ああ」
氷室は頷く。
「倉持は居るのか」
「はい、こちらです」
規制線をくぐる。
今日は入場券はいらない。
館内は静まり返っていた。
「人払いは済ませています」
「早いな、流石だ」
深海魚エリアへ辿り着く。
二つの因果の光。
「ああ、来たか」
倉持の声だった。
「腕は大丈夫か」
「転んじまってなあ」
視えなくても分かる。
きっと、いつものように笑っている。
白鳥が綾瀬の右腕を見詰める。
静かに伝える。
「無理はしないで下さい」
「ありがとうございます。……すいません、今回は、後方支援に徹します」
「大丈夫です。指一本、触れさせません」
白鳥がその大きな身体を見上げる。
陣内が、力強く頷いた。
「……倉持、鸚鵡返しが来る」
「ああ」
空気が張り詰める。
周囲には四人の刑事。
この気配は覚えている。
井上が口を開いた。
「我々は氷室さんの警護に当たります」
(……また、この四人か、頼もしい)
氷室は静かに告げた。
「切り裂き魔の怪異――件が予言した。鸚鵡返しは、間もなくここへ現れる」
刑事たちが息を呑む。
「……あれの正体か」
「そうだ。そして、この水族館の怪異も、協力してくれている」
倉持は鼻で笑い、煙草を咥えた。
「で、俺たちは何をすりゃいい」
「鸚鵡返しの足止めだ」
「私が封印する」
「封印だと、はは――」
倉持が笑う。
『――封印だと、はは――』
――チョッ。
ンッ。
チョッ。
全員が一斉に振り向く。
メキ。
メキメキ。
肉が裂ける音。
背中が、ゆっくり開いた。
継ぎ接ぎの翼が、大きく広がる。
『――夕暮れ。水族館に現れるものとする』
誰かが。
そう囁いた気がした。




