件
伊藤は静かに、ジャケットの胸ポケットへ手を差し入れた。
ゆっくりと引き抜く。
乾いた血がこびり付いた一本のナイフ。
(伊藤……、お前だったのか)
その瞬間。
コツ。
コツ。
硬い蹄の音が社長室へ響いた。
『素晴らしい。お前は、昼は良き父親であるという約束を、娘との約束を無残に破ったのだ』
伊藤の背後。
何もない空間から、怪異が姿を現す。
逞しい牛の身体。
だが、その顔だけは。
深い憂いを湛えた、一人の青年だった。
怪異はゆっくりと鼻先を伊藤の胸元へ寄せる。
深く。
大きく。
息を吸い込んだ。
「う……うぅ……、凛ちゃん……、パパ、ごめんな……」
伊藤は力なく膝をつく。
その身体が、黒い光に包まれていく。
怪異は静かに目を閉じた。
「……ごちそうさま」
迂闊だった。
私の社員が、怪異に喰われていた。
氷室が一歩踏み出す。
「お前えッ!! 私の社員を――!! 伊藤、今、助けてやる」
氷室が踏み出した。
その瞬間だった。
怪異が、静かに口を開く。
『――鸚鵡返しは、夕暮れ。水族館に現れるものとする』
予言。
社長室の空気が一変した。
混乱。
氷室は目の前の怪異へ、日無牢の眼を向けた。
件(17日)余命:3日 倫理:― 幸福:高
起源:█████牛の████████████████████
食性:破られた約束
嫌悪:外道
目的:███予言█████████████
縄張:野良
「視つけた」
氷室は静かに呟いた。
「お前が、件か」
怪異が氷室を見つめる。
『――その眼』
「何だ」
『だいぶ前に、見た』
どうでもいい。
その姿が、ゆっくりと薄れていく。
「――貧乏神、言えず死、逃がすな」
「社長」
伊藤が声を上げた。
「行ってください」
氷室の言葉を遮る。
伊藤は震える腕で床を這う。
「お願いします、外で会話を、聞いてました。もう俺には……、これしか、できない」
涙を流しながら。
氷室へ近づいてくる。
「伊藤……」
握り締めた拳に、爪が食い込む。
「社長。あの鸚鵡返しを、お願いします……、鸚鵡返しを――」
もう少しで。
その手が届く。
その瞬間。
『――予言は成立するものとする』
伊藤の身体が、びくりと止まった。
そして。
何事もなかったように立ち上がる。
表情が消えていた。
「……社長、頼みました」
背を向けた。
「……伊藤。……お前、どうする気だ」
足は止まらない。
「自分で始末を付けます。でも、まだ、やり残したことが、ありますので」
それだけ言い残し。
伊藤は社長室を後にした。
静寂。
白鳥が小さく口を開く。
「……何を言っても、止まらなかったと思います。覚悟を決めた表情でした」
「ああ」
氷室は小さく頷く。
拳を。
机へ叩き付けた。
「白鳥」
「はい」
「どうして私は伊藤に、相談してもらえなかった」
静寂。
氷室の拳が、緩むことは無い。
「……いや」
小さく首を振る。
「最後には、お前は、私を頼ってくれた」
唇を噛む。
「……でも、もっと早く……。頼ってくれても、よかったんだ」
氷室は、椅子に崩れ落ちた。
頭を抱える。




