おめでとう
休日。
百貨店。
まばゆい照明。
そして、鼻を突く、過剰に甘い香水の匂い。
氷室は、ガラスケースを見つめていた。
並べられた、無機質な眼鏡。
一つを手に取り、顔にかける。
正面の鏡。
眉をひそめる。
足音もなく、店員が距離を詰めてきた。
「それ、可愛いですよね。今年出たばかりの新作なんです」
「度の入っていないものを探しています」
「かしこまりました! 度なしですね。ブルーライトカット機能や──」
「一番安いものでいいです」
淡々と遮る。
会釈する店員から、視線を外した。
意識をせずとも、視えるようになっていた。
店員の頭上に浮かぶ、名前と、残された寿命。
だが、この呪いには法則がある。
肉眼で直接、対象を視認しなければシステムは起動しない。
鏡の表面に映る店員には、何も表示されていなかった。
──鏡の中の、自分自身の寿命も、見えない。
(好都合だ)
これは防壁。
視界を物理的に遮断するための、ただの硝子の板。
度なしのレンズを通した瞬間、店員の寿命は視界から綺麗に消滅した。
「これにします」
会計を済ませ、紙袋を受け取る。
足早に、目的の場所へ。
学生時代の友人とのランチ。
唯一残された、日常の境界線へと向かう。
「あ、ユイ」
「久しぶり、涼子」
北陸をテーマにしたフレンチレストラン。
足音がふわりと消える、厚い絨毯。
微かに流れるのは、静かなクラシック。
案内された席に着き、メニューを開いた。
「あれ、ユイ、目が良かったじゃん?」
「ああ、ちょっとね」
慣れない眼鏡のフレームが、鼻梁をわずかに圧迫する。
「お昼から、ワイン、行っちゃう?」
悪戯っぽく微笑む涼子。
「あはは、いいね。そうしよう」
ワインはセルフサービス。
ワインクーラーに敷き詰められた氷の海。
そこに深く突き刺さったボトル。
引き抜く際、氷が擦れ合う冷たい音が響いた。
二人分、同じ淡い色の液体をグラスに注ぐ。
席に戻ると、笑顔の店員がフォカッチャを置いた。
焼き立てが放つ、小麦の香ばしい匂い。
邪魔な防壁──眼鏡を外す。
この時間だけは。この親友の前だけは、あの呪いから解放されたかった。
「お疲れ!」
弾けたのは、涼子の快活な声。
氷室の肩はビクリと小さく跳ねた。
「……お疲れさま」
無理に作った笑みを張り付け、グラスを掲げた。
乾杯。
「ねえ、ユイ。報告がありまして──」
涼子がもったいぶるように、隠していた左手をそっと差し出した。
細い薬指。
小さなダイヤモンドが、窓からの木漏れ日を浴びて、きらりと無邪気に跳ねた。
『おめでとう、涼子』
心の中で、何度も叫んだ。
だが。
祝福の言葉はドロドロとした鉛のように、喉の奥に張り付いたまま、どうしても声になろうとしない。
(……おめでとうって、笑って言いたかったのに)
机の下。
氷室の指先が、購入したばかりの眼鏡のフレームをねじ曲げていた。
レンズという防壁を失った無防備な瞳。
親友の頭上を、真っ直ぐに捉えていた。
「結婚することに、なりましたーー!!」
弾けるような笑顔。
その、楽しげに揺れる髪の真上に。
冷徹な数字が、宣告される。
三木 涼子(24)余命:2カ月
残酷な秒読みは、すでに始まっていた。
さっきまで心地よく喉を潤していたはずのワイン。
それが、胃の底に落ちた瞬間。
ジャリリ、と音を立てて、冷たい氷の海へと変わっていくのが分かった。




