ご当地
「……分かりました」
鴉天狗は静かに息を吐いた。
「少々、お待ち下さい」
その瞳が、妖しく光る。
数秒後。
客室との間を隔てるカーテンが、静かに開いた。
「鈴木さん」
客室乗務員姿の鴉天狗が、穏やかな声で呼びかける。
「氷室様の担当は、ここから私が引き継ぎます」
「えっ?」
鈴木は目を丸くした。
「あ、かしこまりました……。あれ、お名前を――」
「大丈夫ですよ」
柔らかな笑み。
それだけだった。
鈴木は一瞬だけ考え込むような表情を浮かべる。
だが、すぐに小さく頷いた。
「失礼いたしました」
何事もなかったように踵を返し、業務へ戻っていく。
「……感謝します」
白鳥が短く告げた。
鴉天狗は小さく頭を下げる。
「余計な探り合いはやめましょう。単刀直入にお伝えします」
機内へ静寂が戻る。
「日無牢本家は、この地への介入を検討しています」
氷室は何も言わない。
「この地を封じていた福止家と言得洲家。両家の当主は、代替わりを終える前に相次いで死亡しました」
鴉天狗は続けた。
「その空白で、新たな怪異が生まれています」
「ああ」
氷室が頷く。
「鸚鵡返しか」
「はい」
鴉天狗も頷いた。
「さらに。遠い分家だった氷室様が見つかり、すでに日無牢の眼を持っていた。しかも、両目です」
その言葉だけ、わずかに重く響く。
「本家にとっても、完全な想定外でした。現在は、氷室様を観察し、その対応を決めています」
そこまで話すと、鴉天狗は白鳥へ視線を向けた。
白鳥は間を置かずに言葉を継ぐ。
「つまり、私たちが鸚鵡返しへ、どのような落とし前をつけるのか。本家はそれを見極めた上で――我々を受け入れるか、切り捨てるかを決める」
確認するように問いかける。
「……そういう認識で、よろしいですか」
鴉天狗は静かに頷いた。
「はい。その認識で、間違いありません」
「鸚鵡返しの件は、我々で始末を付ける」
氷室は静かに告げる。
「すぐに動く、少しだけ猶予が欲しい」
「……承知いたしました」
鴉天狗は深く頷いた。
「そのように、本家へ伝えます」
少し間を置く。
「鴉天狗。お前自身は、我々をどう見ている」
初めて、鴉天狗が表情を曇らせた。
「……想定外です」
短く答える。
「まさか、私の存在を見抜かれ。さらに、私を狙ってここまで手を打ってくるとは、思ってもおりませんでした。」
額に汗が滲む。
「同行する怪異の力とも思えず。かといって、日無牢の眼だけで説明も付かない」
諦めたように、天井を見上げる。
「今なお、なぜ、こうして捕らえられたのか、理解が及びません」
「はは」
氷室は小さく笑った。
「そうか」
鴉天狗は姿勢を正す。
「……氷室様、以上でございます。本来であれば、このような接触自体、許されるものではありません」
「分かった」
鴉天狗は一礼した。
「恐れ入ります。失礼――」
「ああ、待て」
氷室が呼び止める。
鴉天狗の足が止まった。
「今回の件は忘れる」
静かな声だった。
「本家へ報告するかどうかは、お前の好きにしろ」
沈黙。
鴉天狗はゆっくりと頭を下げる。
その礼は、先ほどまでよりも深かった。
「……恐れ入ります」
そう言うと、客室乗務員として完璧な所作のまま踵を返す。
静かな足音が遠ざかる。
やがてカーテンの向こうへ消えた。
がらんとしたファーストクラス。
残ったのは。氷室と白鳥、二人だけだった。
「……鴉天狗、最後まで困惑していたな。あれは恐らく、全部信じているぞ」
「はい」
白鳥が頷く。
「今後は何メートル後方から監視するのでしょうね」
氷室は小さく笑った。
少しだけ間を置く。
「……ところで、社長」
「どうした」
「よろしかったのですか」
白鳥は静かに尋ねる。
「ご本家のお話を聞ける、貴重な機会でした」
「前にも言っただろう」
氷室は肩をすくめる。
「私は孤児だ。今さら本家と言われても、何の興味もない」
白鳥は答えない。
「それより、この後はどうする。」
白鳥は腕時計へ目を落とした。
「新千歳空港には13時頃に到着します。目的は達成しましたので、そのまま折り返し便で、東京へ戻ります」
「……折角、北海道まで来たんだ」
氷室は背もたれへ身を預ける。
「今日くらい、息抜きをしろ。」
その一言で。
白鳥の思考が少しだけ止まる。
「では」
小さく頷いた。
「社長が気になるものを、いくつか挙げていただけますか」
「私は何にも興味がない」
氷室は即答した。
「お前の息抜きが見られれば、それで十分だ。好きに決めてくれ」
白鳥は少しだけ考えた。
「……では、お言葉に甘えます」
顎に手を当てる。
「まず、このままファーストクラスでワインをいただきます。その後、新千歳空港で有名なラーメンを食べます」
氷室は満足そうに、席に座った。
「ご当地を制覇したら、東京へ戻ります」
「それでいい」
白鳥はすぐに客室乗務員を呼んだ。
「鈴木さん、ワインをお願いします」
注文を済ませると、今度はスマートフォンを取り出す。
折り返し便の予約。
到着後の予定変更。
休むと言いながら。
結局、指先は休まらない。
氷室は何も言わなかった。
ただ。
忙しなく動き続ける、その指先を静かに眺めていた。




