レイヴンとスワン
出発時刻。
機体が滑走路を走り始める。
細かな振動が、座席越しに伝わってきた。
やがて。
身体がふわりと浮く。
離陸。
高度が上がるにつれ、耳の奥がじわりと張る。
不快な圧迫感。
それも数分で落ち着いた。
『――シートベルト着用サインを解除いたします』
機内アナウンスが静かに流れる。
(……さて)
氷室は静かに息を吐いた。
(空飛ぶ、鳥籠だ)
機内は驚くほど静かだった。
エンジン音だけが、一定の低さで響いている。
ファーストクラス。
機体の最前方。
氷室はゆっくりと振り返った。
背後。
五十六名。
一般搭乗客。
一人ずつ。
因果を読む。
異常なし。
異常なし。
異常なし。
静かに可能性を消していく。
一般人。
また一般人。
半分を過ぎる。
誰も引っ掛からない。
ふと。
白鳥の気配が、すぐ隣まで近付いていた。
何も言わない。
ただ、氷室の読み上げを待っている。
最後の一人。
異常なし。
氷室は小さく息を吐く。
白鳥へ顔を向ける。
白鳥は、静かに頷いた。
氷室は前を向く。
次は。
客室乗務員。
一人ずつ。
因果を読む。
鈴木。
異常なし。
長谷川。
異常なし。
藤沢。
異常なし。
――鴉天狗。
氷室の思考が止まった。
その一つだけが。
人では、なかった。
「上客ではなく、客室乗務員へ化けているな」
氷室は小さく呟く。
白鳥が頷いた。
「真面目ですね」
「……本当に、面白い奴らだ」
その視線は、壁を透かし。
真っ直ぐ、鴉天狗を射抜いていた。
鴉天狗(447) 余命:無 倫理:高 幸福:低
その瞬間。
鴉天狗の因果が、小さく揺れた。
「……気付いたか」
氷室は静かに口元を緩める。
「すぐ、その先にいる。向こうも、こちらへ気付いた」
「どうしますか」
「御用があれば、お気軽にお申し付けください、と言ってたな」
白鳥は素早く頷く。
「指名だ」
氷室は、見えた情報を簡潔に伝えた。
そして。
全神経を眼へ集める。
鴉天狗の因果だけが、鮮明に浮かび上がる。
目が合う。
一瞬。
向こうの動きが止まった。
氷室は、何も言わず手招きをする。
鴉天狗は観念したように歩き出した。
そこで、氷室は能力を解く。
目の奥が、ちり、と焼ける。
静かに瞼を閉じた。
柔らかな絨毯を踏む足音。
近付いてくる。
ほのかなシトラスの香り。
やがて。
「……氷室様」
女性の冷たい声が降ってくる。
「お呼びでしょうか」
氷室は答えず、隣へ尋ねた。
「白鳥。こいつは、どんな表情をしている」
白鳥は鴉天狗を見た。
「笑ってはいません。驚きも隠しています。とぼけようとしています」
静かに言い放った。
(どうだ、鴉天狗。……うちの白鳥は、手強いぞ)
氷室は小さく頷く。
「鴉天狗だな?」
氷室が静かに問いかける。
「はい」
客室乗務員の姿をした女は、小さく頷いた。
「日無牢の目で、覗き見をされましたか」
氷室は答えず、白鳥へ小さく合図を送る。
白鳥が一歩前へ出た。
「監視を始めたのは、一週間前ですね」
鴉天狗の肩が、わずかに止まる。
「……その通りです」
白鳥は続けた。
「この一週間。どうして、こちらの警告を無視したのですか」
「……警告?」
鴉天狗は眉一つ動かさない。
「何のことでしょう。存じ上げません」
「明確に、監視へ気付いていると伝えました」
白鳥の声は冷たい。
「それでも監視を続けた。こちらは、敵意と受け取るしかありません」
「お待ちください」
鴉天狗は静かに首を振る。
「回答になっていません。その警告とは、何を指していますか」
白鳥は人差し指を向けた。
「山手トンネルです」
一拍。
「あの十五分間。貴女は、私たちを見失いました」
事実。
「そして、出口で待つ貴女へ。日無牢の視線を送りましたが」
沈黙。
やがて鴉天狗が、小さく息を吐く。
「……あれを、警告と。そうでしたか、あの距離でも、見えていましたか」
白鳥は静かに告げる。
「だから。この鳥籠へ、貴女を閉じ込めました」
「……っ」
鴉天狗の視線が、一瞬だけ天井へ逃げる。
飛べない。
その事実を、改めて思い出したようだった。
氷室が口を開く。
「鴉天狗。お前の主と、その目的。大まかな見当はついている」
鴉天狗は何も答えない。
鋭い視線だけが、こちらを探っている。
白鳥が静かに言葉を継いだ。
「この場で、今後の対応を決めます」
「……待て」
初めて、鴉天狗の声が揺れた。
「私は、主の命令に従っているだけだ。この場で、私で決められては困る」
浮ついた、その甘さ。
白鳥は容赦なく、逃げ道を塞ぐ。
無理やり当事者の席へ縛り付ける。
「いいえ。貴女で判断します」
鴉天狗は黙る。
張り詰めた空気。
小さく息を呑む音だけが響く。
「貴女の誠意を見ます。協力していただけるなら、こちらも、それに応えます」
白鳥は穏やかに微笑んだ。
その笑顔は柔らかい。
だが。
交渉の主導権は、一瞬たりとも渡さない。




