トンネル
渋滞はない。
首都高は滑るように流れていた。
順調だった。
「もうすぐ、山手トンネルです」
「分かった」
氷室は背もたれへ身を預ける。
「しばらく上空へ集中する」
サングラスを静かに外す。
「我々より早く動く光があれば、追跡されている証拠だ」
「はい」
白鳥は小さく頷いた。
氷室は静かに目を閉じる。
意識を空へ向ける。
上空には因果の光がない。
人が存在しない世界だからだ。
「見えました」
白鳥が前を見たまま口を開く。
「山手トンネルです」
「そうか」
氷室に見えるのは、空の暗黒。
「聞かせてくれ。視覚が、懐かしい」
白鳥は少しだけ言葉を選んだ。
「……建物が、青空を切り取っています。」
「その都会の風景に、大きな穴が開いています。」
「入口は暗く。」
「まるで、口を開けているみたいです。」
氷室は静かに耳を傾ける。
社用車がトンネルへ滑り込んだ。
白鳥の声だけが残る。
「景色が、一変しました。」
「灰色です。」
「壁も。」
「天井も。」
「逃げ場がありません。」
少しだけ息を吸う。
「もし閉所が苦手な人なら。」
「自分の吐いた息まで跳ね返ってくるような。」
「そんな息苦しさを覚えると思います。」
(……生々しい)
息を呑んだ。
(閉所恐怖症なら、聞くだけで息が詰まりそうだ)
車は一定の速度で走り続ける。
静寂。
エンジン音だけが響く。
そして。
氷室の視界を、一筋の因果の光が横切った。
速い。
あまりにも速い。
一直線に。
トンネルの出口へ向かって飛び去っていく。
氷室は口元を緩めた。
「……居た」
小さく呟く。
「流れ星みたいだった」
「私のプロファイルは、悪くなさそうですね」
白鳥の声には、わずかな得意げな響きがあった。
「ああ。流石だな」
氷室は倒していたシートを戻す。
鴉天狗の因果は、すでにトンネルの先へ消えている。
(出口へ着くまでは、動きようがない)
再び、車内に沈黙が戻った。
一定のエンジン音。
路面から伝わる、心地よい振動。
氷室は身体を預けたまま、白鳥の言葉を反芻する。
怖いから。
相手を見失うことが。
飛べない場所へ入ることが。
「では、次だ」
氷室は口を開いた。
「どこで待ち伏せていると思う?」
「私なら、出口の真正面です」
白鳥は即答した。
「距離は、三百メートルほど」
その声が、ほんの少し低くなる。
答えを当ててみろ。
そう言われている気がした。
(……分かったよ。今度は、私が当てる)
氷室は思考を深く沈める。
出口から三百メートル。
近すぎれば、発見される。
遠すぎれば、再び見失う。
ならば。
なぜ、限界まで近くにいる。
鴉天狗は一度、標的を見失った。
一刻も早く。
確実に。
もう一度、捕捉しなければならない。
論理だけでは足りない。
そこへ、感情を加える。
焦り。
不安。
そして。
「……恐怖だ」
氷室は呟いた。
「見失うのが怖い。だから出口で、確実に私たちを捉えようとする」
気付けば。
氷室は白鳥の方へ顔を向けていた。
「気付かれない範囲で、可能な限り近くに。――それが、正面三百メートルだ」
数秒の沈黙。
「惜しいです」
白鳥は静かに訂正した。
「早く、『安心したいから』です。出口から標的が現れるのは、今か。今か」
ほんの少しだけ、間を置く。
「……私は、息を潜めて。――待っています」
その瞬間。
氷室の肩が小さく震えた。
無意識だった。
両腕で、自分の身体を抱く。
神経を、細い爪先でゆっくりと撫でられたような感覚。
ぞくり、と全身を駆け抜ける。
(……何だ。これは)
胸の奥が、わずかに熱い。
(感情なのか、これは)
言葉にならない。
短い沈黙。
「社長」
「何だ」
「……今の社長。口だけ、笑っています」
氷室は自分の口元へ触れた。
確かめるように。
「笑っているのか」
小さく息を吐く。
「不思議な感覚だ」
「……もうすぐ、トンネルを抜けます」
「ああ」
氷室は静かに頷いた。
「今なら分かる。奴が出口で待っているなら、私と同じ表情をする」
「はい」
「安心して、口元だけを緩ませる」
白鳥は小さく微笑んだ。
「その通りです」
次の瞬間。
車体を包む空気が変わる。
出口。
――正面、三百メートル。
一点だけ。
因果が光った。
名前は読めない。
文字列も見えない。
だが。
ほんの一瞬。
光が、迷った。
そして。
弾けるように消えた。
「……表情までは、見えなかったな」
「機内のお楽しみです」
白鳥は穏やかに答えた。
「そうだな」
社用車は、そのまま羽田空港へ向けて走り続けた。




