感情
「「――飛行機」」
声が重なった。
一瞬。
社長室に静かな笑みが広がる。
氷室は満足そうに頷いた。
「説明してくれ」
白鳥も小さく頷く。
「伝承では、鴉天狗は空を飛びます。ですが、現代の人間は違います」
白鳥の声が少し、低くなる。
「高度一万メートル、時速八百キロ。生き物が追い付ける速度ではありません」
氷室は珈琲を一口含む。
(ああ、昔話に付き合っていられるか)
「もし監視を続けるなら。奴は飛行機へ乗るしかありません」
白鳥は続けた。
「乗客でも。客室乗務員でも。あるいは機長でも。姿を変えて、同じ便へ乗る」
資料を閉じる。
「つまり」
氷室の口元が緩んだ。
「飛行機そのものが、鳥籠になります」
(……白鳥と鴉では、勝負にならなかったな)
「後は」
氷室は立ち上がる。
「直接、覗くだけだ」
白鳥も続く。
社長室の扉が開く。
歩きながら、スマートフォンを操作する。
「羽田空港へ向かいます。最も早く出発する便を確保します。」
エレベーターが到着した。
扉が開く。
二人は迷わず乗り込む。
「午後には到着できます」
「映画の逃避行みたいだな。行き先は」
白鳥は予約完了の画面を確認した。
「――新千歳空港です」
「そうか。今日の昼食は、機内で済ませるか」
二人は社長室を出る。
そのまま地下駐車場を横切り、社用車へ乗り込んだ。
「飛ばします」
白鳥がシートベルトを締める。
「倉持に捕まるなよ」
エンジンが唸る。
静かに車が走り出した。
(さあ、どうする。鴉天狗。鳥籠へ閉じ込められるぞ)
「中央環状線から湾岸線へ入ります」
白鳥が前を見据えたまま告げる。
「四十分ほどで羽田です」
氷室は後方へ意識を向ける。
因果の光は見える。
だが。
追跡者がいるかまでは判別できない。
「白鳥」
「はい」
「お前が鴉天狗なら、どう動く」
白鳥は少しだけ考えた。
「……私が鴉なら、三百メートルほど後方を飛びます。視認されず、それでいて見失わない距離です。」
少し間を置く。
「目的地が羽田空港だと気付いた場合」
珍しく。
白鳥の返答が止まった。
「……山手トンネル」
静かな声。
「あそこが一番の問題です。どれだけ急いでも。上空からは、十五分ほど監視できません」
氷室は白鳥へ顔を向ける。
彼女の因果だけは違う。
光の並び。
揺らぎ。
重なり。
一つ残らず記憶している。
だから分かる。
今の白鳥は。
追う側ではない。
追われる側でもない。
本気で、追跡者になって考えている。
(……本当に。優秀だな、白鳥)
「……二択になります」
白鳥は前を見据えたまま答える。
「トンネルへ入り、そのまま追跡するか。あるいは、出口で待ち伏せするか」
少しだけ間を置く。
「私なら、待ち伏せを選びます」
見なくても分かる。
白鳥は今、少しだけ笑っている。
相手を追い詰める時だけ見せる、あの自信に満ちた表情だ。
「理由を聞かせてくれ」
白鳥はすぐには答えなかった。
フロントガラスへ流れる首都高の光を見つめる。
そして。
「……怖いからです」
静かに口を開いた。
「飛べない場所へ入ったら。何をされるか、分からない」
車内が静かになる。
エンジン音だけが流れていた。
(……怖いから)
その一言を反芻する。
(私は、そう考えなかった)
だから気付けなかった。
(だが。感情で判断する相手なら。鴉天狗も、同じ結論に至る。)
氷室は静かにサングラスを掛け直した。
因果の光が、少しだけ穏やかになる。
(感情で選ぶ、か。理解は出来ない。……それでも、理屈は通る。)
社用車は首都高を滑るように駆け抜けていった。




