怪異
「ああ、心配するな、白鳥」
氷室は静かに言った。
「本当に、大したことじゃない」
そして。
「――支払う。やれ」
河童が笑った。
その瞬間。
白鳥は目を見開く。
青白く萎びていた河童の肌。
ゆっくりと艶が戻っていく。
乾いた唇が潤い。
頬にわずかな血色が差す。
口元だけが、不気味に歪んだ。
(……また)
拳を握る。
爪が掌へ食い込む。
(また、大切な人から奪っていく……)
胸の奥で、静かな怒りだけが燃え続ける。
異形の怪異を射殺すように。
冷酷な白鳥の視線。
(必ず、取り返します)
河童は満足そうに息を吐いた。
『一つ』
低い声が、水槽の中へ響く。
『野良の「件」が、この地を食い荒らしている』
氷室は黙って聞いている。
『一つ』
河童は続ける。
『他所の「烏天狗」が、お前を監視している』
白鳥はその名を胸へ刻み込む。
そして。
河童の言葉が止まった。
『……む』
皺だらけの指先が、自らの頭を掻く。
考え込むように、小さく唸る。
「どうした」
氷室の声は冷たい。
「代価は支払ったぞ。続きを話せ」
河童はゆっくり顔を上げた。
『初めて見る』
その窪んだ瞳が、不規則に揺れる。
左右ばらばらに動き続ける。
『生まれて間もない怪異だ』
『悪食だ』
『これは、見境がない』
奥歯を噛み締める。
ぶくり。
大きな泡が口から漏れ、水面へ昇っていく。
『人と共生する気が、まるでない』
『いや、野良ですらない』
『……はぐれ者だ』
河童の頭皮が蠢く。
ぷつり。
ぷつり。
新しい眼球がいくつも浮かび上がる。
そのすべてが、一斉に一点を見つめた。
『人の真似をするのか』
『……人の心を喰らう』
一拍。
『――「鸚鵡返し」。』
水槽の底が震えた。
ぼこり、と巨大な泡が弾ける。
河童の頭に生えた眼は、ゆっくりと溶けるように消えていく。
『住処を持たぬ』
足元を冷気が撫でる。
『まだ、赤子だ』
水槽の泡だけが浮かぶ。
氷室は口を開いた。
「……監視?」
氷室が首を傾げる。
「何を監視している」
白鳥は黙って両手を握り締める。
そして。
河童が答える。
静かに氷室たちを指さした。
『……お前たちだ』
「……そうか」
氷室は短く頷く。
「誰の差し金だ」
『分からん』
『分かるのは、一週間前、この街へ入ったことだけだ』
氷室は顎へ手を添える。
「では、福止市を騒がせている『切り裂き』と『都市伝説』」
「どちらも、怪異の仕業か」
『そうだ。』
河童は迷わず答えた。
『件が「切り裂き」』
『鸚鵡返しが「都市伝説」』
短い沈黙。
氷室は何も言わない。
代わりに、白鳥が一歩前へ出た。
「その話を、どう信じろと?」
河童が初めて白鳥を見る。
『疑うか』
窪んだ眼窩の奥へ、侮蔑が浮かぶ。
『我らは宿る』
『物。家。土地』
『あるいは彷徨う野良』
凍り付くような冷気。
『私は、この土地に宿る。だから、この土地のことだけは偽れん』
白鳥は河童を見下ろしたまま、続ける。
「……はぐれ者とは」
河童は鼻で笑う。
『人だけを喰らう外道だ』
『座敷童も、貧乏神も見ただろう。家へ宿る怪異は、人と共に生きる』
白鳥は小さく息を吐く。
『外道は、その逆だ』
「……分かりました」
数秒の間。
白鳥は考える。
「……最後に一つ。残る一柱は」
河童は答えなかった。
代わりに。
ゆっくりと指を持ち上げる。
その先には。
氷室。
「ああ」
氷室は肩を竦めた。
「私は怪異なのか」
少し笑う。
「まあ、人間だとは、もう思ってはいなかった」
河童は何も言わない。
静かに背を向けた。
二人は水槽を後にする。
河童だけが、水面を見上げる。
泡が一つ。
ゆっくりと浮かび上がった。
『……だからか』
小さく呟く。
『あいつらが、動いたのか』




