物騒
福止屋。
『――本日未明、都内の路上および港区のマンション敷地内で、昏睡状態の若い男性が相次いで発見されました。警視庁は関連を調べています――』
店内のテレビがニュースを読み上げる。
氷室は耳を傾けた。
数秒。
静かに口を開く。
「……何かが、動き始めたな」
白鳥が顔を上げる。
「都市伝説の『オウム返し』ですね」
「ああ」
氷室は頷いた。
「怪異だ」
短い沈黙。
「また忙しくなりますね」
その声は、どこか弾んでいるように聴こえた。
「そうだな」
氷室はデスクの上のサングラスを引き寄せ、顔に掛けた。
社外では、主要取引先への挨拶回り。
社内では、新体制の立て直し。
そして裏では。
白鳥企画――旧言得洲企画に残る汚職の洗い出し。
証拠の保全。
不要な人員の整理。
さらに。
福止市へ現れ始めた怪異への対応。
「まずは、可能性を一つずつ潰そう」
氷室は立ち上がる。
半歩先を行く白鳥の革靴が、絨毯を踏みしめる音。
社長室の扉が開く。
廊下へと出ると、硬い床が足音を反響させる。
カツ、カツ、カツ。
壁から跳ね返ってくる残響。
その距離感だけで、氷室は自分の位置を完全に把握する。
迷いはない。
エレベーターの前で足を止める。
白鳥が操作盤へ指を伸ばす。
到着音。
扉が静かに開いた。
二人は乗り込む。
氷室は操作盤へ手を伸ばさない。
行き先は決まっている。
一階。
白鳥がボタンを押す。
扉が静かに閉まり、エレベーターはゆっくりと下降を始めた。
「社長」
白鳥が口を開く。
「一点だけ、懸念があります」
「ああ、何だ?」
氷室が頷いた。
その瞬間。
ふわりと重力が揺れる。
予想より早く、エレベーターが止まった。
到着音。
扉が静かに開く。
「……あ」
控えめな声。
氷室はその声だけで分かった。
「伊藤か」
「はい……」
「時短勤務だったな」
「すいません、お先に失礼します」
伊藤はそれ以上、何も話さなかった。
エレベーターへ乗り込む。
白鳥が閉まるボタンを押す。
扉がゆっくり閉じ始めた。
「――連続切り裂き魔です」
白鳥の声が、狭い密室に響いた。
「ああ」
氷室は静かに答える。
「それがどうした」
「一件目の現場は、この会社からそう遠くありません」
白鳥の声は変わらない。
「近くに潜んでいる可能性があります」
エレベーターが降下を始める。
「倉持に任せればいい」
氷室は短く言った。
「倉持さんなら捕まえるでしょう。一週間も、かからないかと」
一瞬の沈黙。
衣類が擦れる、微かな音。
目の前、伊藤の背中を眺める。
(……社員は暫く、残業禁止にするか)
明るいうちに帰宅させたい。
氷室は決めた。
やがて。
エレベーターが静かに止まった。
扉が開く。
「分かってる、用心するさ」
伊藤の気配へと顔を向けた。
「伊藤」
伊藤は、こちらを向かない。
「気を付けて帰れよ、物騒だ」
「……はい」
短い返事。
一礼。
逃げるように遠ざかる、伊藤の足音。
カツ、コツ、と床を叩くリズム。
妙に歪んでいる。
いつもより歩幅が狭い。
右の踵だけが微かに床を引きずっていた。
何かに怯えているような音だ。
やがて表通りの雑踏の中へと溶ける。
消えた。
「白鳥。当面、社員の残業を禁止したい」
「……はい」
「明るいうちに――」
言いかけて、氷室は言葉を打切った。
隣に立つ白鳥の気配。
呼吸を潜めている。
ただ一点をじっと凝視している。
「……どうした?」
氷室が低く尋ねる。
遠ざかる伊藤の背中があった方向。
そこをを見据えたまま、動かない。
「いえ」
白鳥はいつも通りの、抑揚のない声。
「少し、伊藤が気になっただけです」




