隠し事
「……失礼します」
営業の伊藤が部屋へ入ってきた。
「かけてくれ」
「は、はい」
椅子を引く音。
浅い呼吸。
座るまでに、ほんの一拍だけ間があった。
「氷室社長……」
硬くなった声だった。
氷室は静かに顔を向ける。
因果の線が、男の輪郭を縁取る。
その横へ、文字列が浮かぶ。
伊藤 博志(27) 余命:22年 倫理:低 幸福:無
(……これは、何だ)
先月は、二十九年だった。
一か月で、七年も縮んでいる。
「す、すいません」
伊藤が頭を下げる。
「妻の件で、ご迷惑を――」
「奥さんのことだけを考えろ」
氷室は言葉を遮った。
「制度は全部使え」
部屋が静かになる。
「……仕事のことは、後でいい」
伊藤は顔を上げる。
何か言おうとして。
言葉が出ない。
「なあ、伊藤」
話しかける。
「覚えてるか、領収書」
笑顔を、思い出そうとする。
「いつも丸まったまま持って来るだろ」
伊藤の肩が小さく震えた。
「……すみません」
反射のように頭を下げる。
「伸ばしてから渡してくれてたな。律儀な奴だと思ってた」
伊藤は何も答えない。
沈黙だけが落ちる。
「……社長」
白鳥が静かに声を挟む。
「……言いたいのは、お前は、人に優しく出来る人間だ」
しっかりと、伊藤の目を見ようとする。
「だから、遠慮するな」
「時短でも休職でも、使える制度は全部使え」
伊藤は俯いたまま、小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
その声は、震えていた。
部屋を静けさが包む。
(……妙だ)
氷室は首を傾げる。
感謝だけではない。
怯え。
罪悪感。
そして――。
何かを隠している音がした。
氷室は、伊藤の心を知ろうとした。
「どうした?」
伊藤は俯いたまま、小さく首を振る。
「……いえ」
声が詰まる。
「ありがとうございます」
一度息を吸う。
「本当に……私なんかのために」
両手は膝の上で固く握られていた。
わずかに震えている。
「会社の皆さんにも、よくしていただいて……」
「何て言えばいいのか……」
言葉が続かない。
白鳥が静かに口を開いた。
「給与も、人事評価も心配しなくて結構です」
「会社は、これまでのあなたの働きを正当に評価しています」
「今は、ご家族を優先してください」
伊藤はゆっくり頷いた。
「……はい」
「面談は以上です。今日は早めに帰ってください」
「ありがとうございます」
椅子が引かれる。
足音が遠ざかる。
静かに扉が閉まった。
それでも。
伊藤の因果だけは、扉の向こう側まで伸びている。
無数の因果が交差していても、氷室には見失えない。
「……心を閉ざしていますね」
白鳥がぽつりと呟く。
「む。」
氷室は首を傾げた。
「やはり奥さんの件か」
白鳥はすぐには答えなかった。
少しだけ考えているようだ。
「社長には、どう映りましたか」
と尋ねた。
「輪郭で分かる」
氷室は静かに答える。
「恐らく悲しい顔をしていた。……奥さんのことで頭がいっぱいなのだと、推測している」
白鳥は小さく息を吐く。
「私は少し違う印象でした」
氷室は黙って耳を傾けた。
「一度も、こちらを見ませんでした」
白鳥の声が、低くなる。
「返事はします。ですが、自分から何かを話そうとはしない。――何かを隠しているように見えました」
「隠し事か」
氷室は腕を組む。
「何だと思う」
「分かりません」
白鳥は首を振る。
「以前、私が上司だった頃。酒癖だけは、何度か注意しました」
伊藤の酒の匂いを思い出す。
「……もっとも」
白鳥は資料を閉じた。
「今は詮索すべきではありません」
「ああ、今は、仕事くらいは忘れさせてあげたい」
短く答える。
伊藤の因果は、まだ扉の向こうで揺れていた。
それでも氷室は、その先を覗こうとはしない。
社員を信じること。
それが、自分の役目だと思っていた。




