オムライス
夕方。
「すみません、お先に失礼します」
伊藤は頭を下げ、会社を出た。
急ぎ足で幼稚園へ向かう。
門の前で待っていると、小さな足音が駆けてきた。
「パパ!」
「おかえり」
伊藤はしゃがみ込み、その小さな手を握る。
「……今日のご飯、なーんだ?」
「オムライス!」
娘が胸を張る。
「覚えてたんだね」
「うん!」
得意げな笑顔だった。
じくりと、突き刺さる。
帰り道。
娘は今日あった出来事を夢中で話している。
「きょうね、ブランコいちばんだった!」
「それとね、おえかきしたの!」
「くまさんもかいた!」
相槌を打ちながら歩く。
その小さな手だけは、離さないように握り続けた。
マンションへ着く。
玄関の鍵を開ける。
「ただいま」
「ただいまー!」
娘が元気よく靴を脱ぐ。
その姿を見届けてから、小さく息を吸った。
――時間だ。
「ああ、ごめん」
せめて、いつも通りに。
「パパ、忘れ物しちゃった」
娘が振り向く。
「えー?」
「すぐ、戻るよ」
笑顔で応えたはず。
出来ていたかは、分からない。
「着替えたら、ささっと取ってくるから」
娘は小さく頷いた。
「……はやく帰ってきてね」
「うん」
笑って答える。
自室へ入る。
ドアを閉める。
笑顔が消えた。
スーツを脱ぐ。
私服へ着替える。
胸ポケットへ手を入れる。
冷たい鞘。
指先が、小さく震えた。
時計を見る。
16時32分。
まだ引き返せる。
そう思う。
娘の笑顔が浮かぶ。
病室の妻が浮かぶ。
件の予言が蘇る。
伊藤は目を閉じた。
深く息を吸う。
ゆっくり吐く。
そして。
玄関のドアを静かに開けた。
夕暮れの街へ踏み出す。
赤く染まった暖簾をくぐる。
酒の匂いが、鼻を刺した。
覚悟は決まっている。
酒を流し込む。
味なんて分からない。
喉を焼く熱だけが、胃へ落ちていく。
気付けば、店の外は夜になっていた。
――今夜、やる。
グラスが何杯空いたのかも覚えていない。
指先の震えだけが、消えていた。
勘定を済ませる。
店を出る。
夜風が頬を撫でた。
足は自然と繁華街を離れていく。
街灯も少なくなる。
人通りも消える。
高架下。
酒と吐瀉物の臭いが淀んでいた。
泥酔した人間が、あちこちへ転がっている。
知っている。
かつて、自分もこの場所で朝を迎えた。
警察も滅多に来ない。
誰も見ない。
誰も気にしない。
足を止める。
壁際。
暗がりへ身体を預けた男が眠っていた。
近づく。
寝息。
酒臭い息。
汚れた上着。
一歩間違えれば。
そこにいるのは、自分だった。
目を閉じる。
娘が笑う。
妻が眠っている。
病室。
白いシーツ。
胸ポケットへ手を入れる。
冷たい柄を握る。
ゆっくり引き抜く。
(……俺が、守るから)
それだけだった。
刃が走る。
肉を裂く感触。
男が小さく呻く。
振り返らない。
血の付いた刃を静かに鞘へ戻す。
服に返り血はない。
歩き出す。
酔った足取りのまま。
いつもの帰り道を歩く。
誰も振り返らなかった。
帰宅。
時刻は、まもなく23時。
玄関を開けても、「おかえり」は聞こえない。
静かな部屋。
リビングへ入る。
小さな身体が、椅子にもたれたまま眠っていた。
娘。
テーブルには卵。
ケチャップ。
フライパン。
オムライスを作る準備だけが、そのまま残されている。
伊藤の足が止まる。
娘はテディベアを抱いたまま、小さく寝息を立てていた。
「……ごめん」
声にならない。
照明を落とす。
部屋が暗闇に沈む。
その影が、ゆっくりと歪んだ。
件が現れる。
『……ごちそうさま』
低く喉を鳴らす。
その音は、これまでで一番深かった。
皺だらけだった頬には艶が戻り、黒い毛並みがゆっくりと皮膚を覆い始めている。
満ち足りた目だった。
『見事だ』
件は眠る娘へ目を向ける。
『お前は捕まらぬよう、冷静に獲物を選んだ』
老人は目を細める。
『だからこそ、この子との約束は、綺麗に壊れた』
伊藤は答えない。
視線だけが、テーブルへ落ちる。
娘は、本当に待っていた。
指先が震え始める。
喉が渇く。
胸の奥がざわつく。
件はその震えを見つめた。




