一人で抱えないで
翌朝。
伊藤は病室にいた。
白いベッド。
妻は静かに眠っている。
いつもの寝顔。
その隣。
小さな身体を丸めた娘。
泣き疲れたように眠っている。
窓から差し込む朝日だけが、病室を静かに照らしていた。
「……どこも、悪くないんです。」
主治医は検査結果の書類を机へ置いた。
その指先は、かすかに震えている。
「検査では異常が一つも見つかりません」
遠い。
他人事に聞こえる。
「脳も、神経も、内臓も、奥様の体は、健康そのものです」
伊藤は顔を上げる。
「だったら……!」
声が裏返る。
「だったら、なんで目を覚まさないんですか!」
主治医は静かに目を伏せた。
沈黙。
この場で呪い殺してやりたい。
「……現代医学の限界です」
医者の瞳を一瞥する。
伊藤は妻の手を握った。
温かい。
呼吸も穏やかだった。
胸も規則正しく上下している。
生きている。
それなのに。
指先は、握り返してくれない。
「今の私たちにできることは一つだけです。」
医師は静かに続けた。
「このまま身体が衰えないよう支えながら、目覚める日を待つしかありません」
病室が静まり返る。
機械の電子音だけが、小さく響いていた。
「……パパ?」
小さな声。
目を擦りながら身体を起こそうとしている。
寝癖のついた髪。
少し腫れた目。
「おはよう、凛ちゃん」
伊藤は笑った。
必死に。
「……ママ?」
娘が首を傾げる。
返事はない。
「ママ……?」
声が少し震えた。
何も言わず、娘を抱き寄せる。
小さな身体は、不安そうに震えていた。
胸が締めつけられる。
「ママ、おきないの?」
それでも。
伊藤は笑顔を崩さなかった。
「大丈夫」
娘の頭をゆっくり撫でる。
「ママは少し疲れちゃっただけだ。――すぐ起きるよ」
今、この子だけは、守らなければならない。
娘は黙って頷き、小さな手で妻の手を握った。
「ママ。はやく、おきてね」
その一言が、病室の静けさへ溶けていく。
伊藤は妻を見つめた。
病室の窓から差し込む朝日だけが、何も知らないように静かに頬を照らしている。
(……俺が、助けるから)
胸元のナイフが、熱い。
「……それでは、失礼します」
主治医が病室を出ていく。
静かな足音だけが遠ざかった。
「凛ちゃん」
伊藤はしゃがみ込む。
「幼稚園の時間だよ」
娘は妻の手を握ったまま、小さく頷いた。
「……わかった」
聞き分けが良すぎた。
肩に、小さな身体が寄りかかる。
泣くまいとしている。
その震えだけが伝わってきた。
「……ママ」
娘は眠る妻を見つめる。
「またね」
その声を聞きながら、伊藤は病室を後にした。
廊下へ出る。
一度だけ振り返る。
妻は眠ったままだった。
「今日はパパ、早く帰る」
娘の手を握る。
「凛ちゃんの好きなオムライス、作ろうね」
約束。
娘は小さく笑った。
「うん」
もう片方の手。
崩れ落ちそうな程、震えた。
午後。
会社へ着くと、伊藤は真っ直ぐ庶務課へ向かった。
「あの、遠藤さん」
声を掛ける。
「あっ!」
遠藤が顔を上げる。
「伊藤さん! 領収書、昨日まででしたよ!」
その言葉で思い出す。
慌ててポケットを探る。
しわだらけになった領収書。
酔った夜に、無造作に押し込んだままだった。
伊藤はそれを指先で伸ばす。
震えが止まらない。
「ごめんね」
苦笑いを浮かべる。
「今日は、それじゃなくて」
少し息を吸う。
「妻が入院してさ」
遠藤の笑顔が消えた。
「娘を見る人がいなくて、しばらく時短勤務を相談したい。」
「……そうだったんですね」
遠藤はすぐ椅子を引いた。
「営業の課長さんには?」
「話はしてある」
「じゃあ大丈夫です!」
パソコンへ向き直る。
「今すぐ申請できます」
「ありがとうございます」
「あと」
遠藤は立ち止まる。
「会社の制度、結構あります。育児支援も、休職制度も。調べて全部まとめます」
いつの間にか、周囲の女性社員も集まっていた。
「困ったら相談してください」
「一人で抱えないでくださいね」
伊藤は言葉が出なかった。
「あ……」
頭を下げる。
「ありがとう」
その一言しか言えない。
庶務課を出る。
廊下は静かだった。
胸ポケットへ手を当てる。
布越しに伝わる。
冷たいナイフの感触。
伊藤は立ち止まる。
胸が締めつけられる。
優しくされるほど。
自分が壊れていく気がした。




