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大型案件の決済種別は『一家心中』――死んでも止まらない派遣社員は、322歳の社長を許さない  作者: 葛石
第六章 件の約束編

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父親


肺が焼けそうだった。


あの角を曲がれば、自宅マンション。


赤い光が見える。


サイレン。


(……違う)


胸が強く脈打つ。


(うちじゃない……、違う)


角を曲がる。


足が止まった。


担架の上。


隙間からこぼれた、見慣れた細い指。


お気に入りの指輪。


「……あ」


声にならない。


泣いている。


「……ひっ……、う、ママ……っ」


今日は誕生日、なのに。


視界が、真っ赤に染まる。


なぜ逃げた。


引き裂いてやれば、良かった。


手を出された。


許さない。


息の根ごと、喉元を引き裂いてやる。


伊藤は駆け寄った。


目を閉じている。


「ねえ、起きて」


肩を揺する。


「……おい、頼むから」


いつもなら。


寝返りを打つだけで目を覚ます。


眠りの浅い人だから。


だから。


――起きない。


誰かが叫んでいる。


サイレンが鳴る。


無線が飛び交う。


何も聞こえない。


気付けば両腕を掴まれていた。


救急隊員の口が動く。


何か言っている。


意味が分からない。


娘が誰かに抱きかかえられる。


救急車の扉が閉まる。


そこで初めて。


力が抜けた。


手からコンビニの袋が落ちる。


ごとり。


白い牛乳のパックが、アスファルトの上を転がった。


「娘さんが……」


救急隊員の声だけが耳に残る。


「窓を見て急に泣き出したそうです」


伊藤は目を閉じる。


「その直後、お母さんが倒れて……」


あの怪物。


『博志さん』


呼吸が荒くなる。


それでも。


頭は冴えていた。


伊藤は自分を見失わない。


娘を守る。


そのためだけに。


夜の街へ駆け出した。




いつも逃げ出した先で辿り着く公園だった。


朝。


このベンチで、娘へのプレゼントを考えていた。


その同じ場所に立っている。


「出てこい」


影が揺れる。


件が現れる。


「助けろ」


件は眉一つ動かさない。


『無理だ』


『予言は、干渉ではない』


左手が件の首を掴む。


「お前の予言だろうが……」


指に力が入る。


「……切り裂き事件、なんて……」


刃が、肉に食い込む。


件は静かに答える。


『幸福と絶望』


『表裏一体なのだ』


伊藤の手は、止まらない。


「……俺が招いたのか」


長い沈黙。


『そうだ』


黒い、泥のような血が一滴、地面へ滴る。


『……そう望んだのは』


気付けばナイフは、件の耳の付け根を深く貫いている。


『お前だ』


件は表情を変えず、ただ、首筋をさすった。


『忘れたか』


全身の力が抜けていく。


「……どうすれば妻は助かる」


老人は、ただ黙って伊藤を見つめる。


長い静寂。


風が、木の葉を揺らす音だけが響く。


『私の予言は表裏一体、奴を上回るほど、崩せ』


「どうすればいい」


件はゆっくり舌を舐める。


『昼は、娘の前で父親であれ』


件が、一歩、伊藤に近づく。


『夜は、切り裂き魔になれ』


心臓が、ドクンと脈打った。


静寂。


伊藤は何も答えなかった。


風だけが吹く。


妻。


娘。


その二人だけが頭に浮かぶ。


件が鼻先を胸へ近付ける。


深く息を吸う。


胸を締め付けていた罪悪感が、ゆっくり薄れていく。


老人は満ち足りたように喉を鳴らした。


『……ごちそうさま』


瞳が漆黒へ染まる。


「言え」


『――明日。お前は人を切り裂くものとする』


伊藤は、ゆっくりと、受け入れるように目を閉じた。


「ああ」


立ち上がる。


その足は、コンビニへ向かっていた。

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