父親
肺が焼けそうだった。
あの角を曲がれば、自宅マンション。
赤い光が見える。
サイレン。
(……違う)
胸が強く脈打つ。
(うちじゃない……、違う)
角を曲がる。
足が止まった。
担架の上。
隙間からこぼれた、見慣れた細い指。
お気に入りの指輪。
「……あ」
声にならない。
泣いている。
「……ひっ……、う、ママ……っ」
今日は誕生日、なのに。
視界が、真っ赤に染まる。
なぜ逃げた。
引き裂いてやれば、良かった。
手を出された。
許さない。
息の根ごと、喉元を引き裂いてやる。
伊藤は駆け寄った。
目を閉じている。
「ねえ、起きて」
肩を揺する。
「……おい、頼むから」
いつもなら。
寝返りを打つだけで目を覚ます。
眠りの浅い人だから。
だから。
――起きない。
誰かが叫んでいる。
サイレンが鳴る。
無線が飛び交う。
何も聞こえない。
気付けば両腕を掴まれていた。
救急隊員の口が動く。
何か言っている。
意味が分からない。
娘が誰かに抱きかかえられる。
救急車の扉が閉まる。
そこで初めて。
力が抜けた。
手からコンビニの袋が落ちる。
ごとり。
白い牛乳のパックが、アスファルトの上を転がった。
「娘さんが……」
救急隊員の声だけが耳に残る。
「窓を見て急に泣き出したそうです」
伊藤は目を閉じる。
「その直後、お母さんが倒れて……」
あの怪物。
『博志さん』
呼吸が荒くなる。
それでも。
頭は冴えていた。
伊藤は自分を見失わない。
娘を守る。
そのためだけに。
夜の街へ駆け出した。
いつも逃げ出した先で辿り着く公園だった。
朝。
このベンチで、娘へのプレゼントを考えていた。
その同じ場所に立っている。
「出てこい」
影が揺れる。
件が現れる。
「助けろ」
件は眉一つ動かさない。
『無理だ』
『予言は、干渉ではない』
左手が件の首を掴む。
「お前の予言だろうが……」
指に力が入る。
「……切り裂き事件、なんて……」
刃が、肉に食い込む。
件は静かに答える。
『幸福と絶望』
『表裏一体なのだ』
伊藤の手は、止まらない。
「……俺が招いたのか」
長い沈黙。
『そうだ』
黒い、泥のような血が一滴、地面へ滴る。
『……そう望んだのは』
気付けばナイフは、件の耳の付け根を深く貫いている。
『お前だ』
件は表情を変えず、ただ、首筋をさすった。
『忘れたか』
全身の力が抜けていく。
「……どうすれば妻は助かる」
老人は、ただ黙って伊藤を見つめる。
長い静寂。
風が、木の葉を揺らす音だけが響く。
『私の予言は表裏一体、奴を上回るほど、崩せ』
「どうすればいい」
件はゆっくり舌を舐める。
『昼は、娘の前で父親であれ』
件が、一歩、伊藤に近づく。
『夜は、切り裂き魔になれ』
心臓が、ドクンと脈打った。
静寂。
伊藤は何も答えなかった。
風だけが吹く。
妻。
娘。
その二人だけが頭に浮かぶ。
件が鼻先を胸へ近付ける。
深く息を吸う。
胸を締め付けていた罪悪感が、ゆっくり薄れていく。
老人は満ち足りたように喉を鳴らした。
『……ごちそうさま』
瞳が漆黒へ染まる。
「言え」
『――明日。お前は人を切り裂くものとする』
伊藤は、ゆっくりと、受け入れるように目を閉じた。
「ああ」
立ち上がる。
その足は、コンビニへ向かっていた。




