赤子
伊藤は息を呑んだ。
青白い腕。
皮膚を縫い合わせたような継ぎ目。
細長い首。
背中には、不格好な翼が生えている。
まるで。
誰かが、大きな鳥を見よう見まねで人間に作り替えたようだった。
――チョッ。
ンッ。
チョッ。
足音とも羽音ともつかない音を立てながら、ゆっくり近づいてくる。
その瞬間。
足元の影が揺れる。
件が、静かに姿を現した。
その顔からは、余裕が消えている。
『……やめておけ』
件は低く言った。
『酒にも負けず、正気も失わず、娘を愛した』
青白い継ぎ接ぎに向き直る。
『立派な父親のまま、人を切り裂いた』
老人は肩をすくめる。
『見事な予言だった。……と言いたいところだったが』
伊藤は一歩下がる。
「何なんだ、あいつは」
『解らん、あれは新参者だ』
件は即答した。
『何を考えているのか、私にも読めない』
次の瞬間。
怪物の翼が音もなく伸びる。
『離れるぞ』
件が駆け出した。
その背中を追う。
角を曲がる。
その瞬間。
『ヒ……』
真後ろから聞こえる。
『ヒ……、博志さん、どこ』
「――ッ!」
怪物が四肢を歪ませ、一気に距離を詰めてくる。
『――まだ予言は出来ない』
件の、感情の無い声。
伊藤は大きく息を吐く。
娘の笑顔を思い浮かべる。
走る。
『赤子だ』
止まらない。
やがて大通りへ飛び出した。
『何をしているか』
人混みへ紛れ込む。
『自分でもまだ分からないのだ』
件の皺だらけの顔を見る。
(……逃げ切った)
それでも。
背中には、まだ誰かの視線が張り付いていた。
肩で息をする。
胸が焼けるように熱い。
汗を含んだシャツが、肌に張り付く。
路地を抜けた鳥の異形は、きょろきょろと首を動かし、行き交う人々を眺めていた。
誰も足を止めない。
誰一人、あれを見ていない。
「……見えてないのか」
『そうだ』
鳥の異形は、ふらふらと歩き出した。
向かった先には、言い争う若い男女。
「だから友達だって言ってるじゃん」
「だったら見せてよ」
「はぁ?」
「なんで今、画面伏せたの?」
「……マジでめんどくせぇ」
「そういうとこ!」
鳥の異形が立ち止まる。
首が傾く。
『さ……』
長い首が、小刻みに震えた。
『める?』
胸の真ん中に、一本の裂け目が走る。
びり。
腹まで裂ける。
そこは全部が、口だった。
何重にも並んだ歯が、ゆっくり開いていく。
「なんでよ! 浮気じゃ――」
女の悲鳴が途中で消えた。
怪異の身体がぐるりと捻れる。
一瞬。
女の姿が、その巨大な口へ吸い込まれた。
静寂。
異形は首を傾げる。
喉が、ごくりと鳴った。
そして。
ゆっくりと、口が開く。
女が地面へ吐き出された。
怪異は女を見下ろす。
『うわき』
『じゃん』
「え……?」
男が振り向いた。
見えていない。
興味深そうに覗き込む、怪異のくちばし。
「……あ、お、おい!」
男が女に駆け寄った。
肩を揺する。
女はゆっくり顔を上げる。
その目には、何も映っていなかった。
男の悲鳴が、大通りに響き渡る。
人々が、一斉に振り返る。
伊藤は動けなかった。
異形が、不思議そうに首を傾げている。
『さめる』
ぽつり、と呟いた。
伊藤は息を整えながら問う。
「何が起きた」
『食事だろう』
件は吐き出された女を見つめたまま答える。
『……怒りか、嫉妬か。あるいは、人の感情そのものか』
老人は小さく肩をすくめる。
『私にも、分からん』
伊藤は怪物を見つめる。
「言葉を……真似してるのか」
件は頷く。
(……言葉? 真似? ――おい、嘘だろ)
呼吸が止まる。
最初。
あいつは。
『博志』
と言っていた。
ぞわり、と背筋が粟立つ。
「……家だ」
伊藤は走り出した。
件は何も言わない。
ただ影へ溶けるように姿を消し、その後を追った。




