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大型案件の決済種別は『一家心中』――死んでも止まらない派遣社員は、322歳の社長を許さない  作者: 葛石
第六章 件の約束編

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テディベアとナイフ


翌日。


眩しい朝日が瞼を刺した。


頭が割れるように痛い。


胃の奥では酒がまだ揺れている。


伊藤博志は額を押さえながらスマートフォンを耳に当てた。


「――伊藤です。申し訳ありません。今朝、少しトラブルがありまして……。もしよろしければ、ご訪問を明日に変更させていただけませんか」


電話を切る。


深く息を吐いた。


午前中の公園。


ベンチへ腰を下ろす。


家には帰れない。


妻に顔を見られる。


この真っ赤な顔では、会社にも行けない。


酒の臭いはガムでごまかせても、目の充血までは隠せない。


スマートフォンを開く。


昨日の商談報告。


経営方針の転換。


設備投資の計画。


社長の反応。


受注の可能性。


驚くほど鮮明に覚えている。


一件ずつ入力していく。


昨日は酒を飲んだ。


それでも仕事は、ちゃんとできた。


最後の一件を送信する。


「……よし」


小さく息が漏れる。


その時だった。


ベビーカーを押した母親が、目の前を通り過ぎた。


小さな女の子が笑っている。


自然と目で追ってしまう。


娘が生まれてから、このくらいの子を見ると、つい見てしまうようになった。


そして。


今日の日付が頭に浮かぶ。


「……あ」


今日は娘の誕生日だ。


プレゼントを約束していた。


何を買うと言った?


思い出せない。


妻に聞けば、不審に思われる。


(……思い出せ。仕事が終わるまでに)


スマートフォンをポケットへしまう。


営業車へ乗り込み、いつものルートを回る。


いつもの客先を訪ねる。


笑う。


提案する。


契約を一件、取った。


いつも通りの一日だった。




自宅マンションの前。


伊藤はしばらく玄関の前で立ち尽くしていた。


結局、最後まで思い出せなかった。


娘と約束した、本当のプレゼント。


腕に抱えているのは、大きなテディベア。


店員と相談して、ようやく選んだ。


喜んでくれるだろうか。


そんな不安を胸に、鍵を回す。


「……ただいま」


「――パパ!」


弾けるような声が家中に響いた。


廊下の奥から、小さな足音が駆けてくる。


ぱたぱた。


勢いよく飛び込んできた娘は、そのまま伊藤のお腹へぶつかった。


「おかえりー!」


思わず笑って、その小さな身体を抱き上げる。


「ただいま」


「ん?」


娘の視線が、伊藤の腕へ吸い寄せられた。


丸い目が、さらに大きく開く。


「くま……!」


一歩、また一歩と近づき、指先で耳をつつく。


「えっ……これ、わたしの?」


「そうだよ」


「ほんと?」


「誕生日、おめでとう」


「やったぁーー!」


娘はテディベアをぎゅっと抱きしめると、その場でくるりと回った。


「ママー! 見てー! パパがくまさんくれたー!」


嬉しさを抑えきれず、そのままリビングへ駆けていく。


その後ろ姿を見つめる。


昨夜。


空になったウイスキーの瓶。


黒い瞳の化け物。


『――明日。お前は最後まで娘を愛している』


胸の奥が、ちくりと痛む。


「パパ!」


娘が振り返る。


「ありがと!」


その笑顔だけで、胸がいっぱいになった。


「……どういたしまして」


その夜。


伊藤は一滴の酒も口にしなかった。


壁には色とりどりの飾り付け。


五本のろうそくが灯ったケーキ。


「せーの!」


「おたんじょうび、おめでとう!」


娘は照れくさそうに笑って、大きく息を吸い込む。


ふぅ――。


ろうそくの火が揺れて消えた。


「けせた!」


「やったぁ!」


妻が手を叩く。


安心する。


(俺は、ここに居ていい……)


娘はテディベアを抱えたまま、ケーキを頬張り、口の周りをクリームだらけにして笑っていた。


「パパ」


「ん?」


「くまさんね」


娘はテディベアを抱きしめながら、小さな声で言う。


「きょうから、いっしょにねる」


伊藤は笑った。


「そうか」


「うん! パパ、ありがと」


その一言に、妻がそっと目元を押さえる。


「博志さん……ありがとう」


部屋を見回した。


笑顔。


ケーキの甘い匂い。


娘の笑い声。


(――ほらな)


心の中で、件をあざ笑う。


(俺は正気だ。俺は娘を愛している。切り裂き魔になんて、なるはずがない)




時計の針が、夜の10時を回る。


娘はテディベアを抱きしめたまま、小さな寝息を立てていた。


頬には、まだ笑った名残が残っている。


伊藤はその寝顔を見つめ、そっと部屋の灯りを落とした。


最高の誕生日は、もう終わった。


「あ……明日の朝の牛乳、切らしちゃった」


妻が困ったように笑う。


「俺が買ってくるよ」


「ごめんね」


「すぐ戻る」


伊藤は上着を羽織り、静かに玄関を閉めた。


夜の空気は冷たい。


肺いっぱいに吸い込むと、熱の残っていた身体がゆっくり冷えていく。


足取りはまっすぐだった。


頭も冴えている。


酒のことなど、もう考えていなかった。


酒類のコーナーを、通り過ぎる。


コンビニの袋を提げて帰る。


牛乳が一本。


妻の好きなお菓子も一つだけ買った。


静まり返った路地へ足を踏み入れた、その時。


足が止まる。


自宅マンションの前。


街灯の下に、誰かが立っていた。


長身の人影は、微動だにせず、部屋を覗いている。


その瞬間だった。


熱が全身を駆け抜ける。


息が浅くなる。


守らなければ。


娘を。


妻を。


今すぐ。


頭は驚くほど冴えていた。


恐怖もない。


迷いもない。


ただ一つ。


あれを、ここから追い払う。


気づけば、右手にはナイフが握られていた。


「……出ていけ」


低い声が漏れる。


窓へ伸びた腕を狙い、刃を振り抜く。


肉を裂く。


確かな手応え。


温かい感触が掌へ伝わった。


だが。


動かない。


伊藤の呼吸が止まる。


首だけが。


ゆっくり。


ぎり。


ぎり。


人間ではありえない角度まで回っていく。


街灯に照らされた顔が、伊藤を見た。


そして。


『ヒ……』


『ヒ……』


『博志さん』


『どこ』


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