テディベアとナイフ
翌日。
眩しい朝日が瞼を刺した。
頭が割れるように痛い。
胃の奥では酒がまだ揺れている。
伊藤博志は額を押さえながらスマートフォンを耳に当てた。
「――伊藤です。申し訳ありません。今朝、少しトラブルがありまして……。もしよろしければ、ご訪問を明日に変更させていただけませんか」
電話を切る。
深く息を吐いた。
午前中の公園。
ベンチへ腰を下ろす。
家には帰れない。
妻に顔を見られる。
この真っ赤な顔では、会社にも行けない。
酒の臭いはガムでごまかせても、目の充血までは隠せない。
スマートフォンを開く。
昨日の商談報告。
経営方針の転換。
設備投資の計画。
社長の反応。
受注の可能性。
驚くほど鮮明に覚えている。
一件ずつ入力していく。
昨日は酒を飲んだ。
それでも仕事は、ちゃんとできた。
最後の一件を送信する。
「……よし」
小さく息が漏れる。
その時だった。
ベビーカーを押した母親が、目の前を通り過ぎた。
小さな女の子が笑っている。
自然と目で追ってしまう。
娘が生まれてから、このくらいの子を見ると、つい見てしまうようになった。
そして。
今日の日付が頭に浮かぶ。
「……あ」
今日は娘の誕生日だ。
プレゼントを約束していた。
何を買うと言った?
思い出せない。
妻に聞けば、不審に思われる。
(……思い出せ。仕事が終わるまでに)
スマートフォンをポケットへしまう。
営業車へ乗り込み、いつものルートを回る。
いつもの客先を訪ねる。
笑う。
提案する。
契約を一件、取った。
いつも通りの一日だった。
自宅マンションの前。
伊藤はしばらく玄関の前で立ち尽くしていた。
結局、最後まで思い出せなかった。
娘と約束した、本当のプレゼント。
腕に抱えているのは、大きなテディベア。
店員と相談して、ようやく選んだ。
喜んでくれるだろうか。
そんな不安を胸に、鍵を回す。
「……ただいま」
「――パパ!」
弾けるような声が家中に響いた。
廊下の奥から、小さな足音が駆けてくる。
ぱたぱた。
勢いよく飛び込んできた娘は、そのまま伊藤のお腹へぶつかった。
「おかえりー!」
思わず笑って、その小さな身体を抱き上げる。
「ただいま」
「ん?」
娘の視線が、伊藤の腕へ吸い寄せられた。
丸い目が、さらに大きく開く。
「くま……!」
一歩、また一歩と近づき、指先で耳をつつく。
「えっ……これ、わたしの?」
「そうだよ」
「ほんと?」
「誕生日、おめでとう」
「やったぁーー!」
娘はテディベアをぎゅっと抱きしめると、その場でくるりと回った。
「ママー! 見てー! パパがくまさんくれたー!」
嬉しさを抑えきれず、そのままリビングへ駆けていく。
その後ろ姿を見つめる。
昨夜。
空になったウイスキーの瓶。
黒い瞳の化け物。
『――明日。お前は最後まで娘を愛している』
胸の奥が、ちくりと痛む。
「パパ!」
娘が振り返る。
「ありがと!」
その笑顔だけで、胸がいっぱいになった。
「……どういたしまして」
その夜。
伊藤は一滴の酒も口にしなかった。
壁には色とりどりの飾り付け。
五本のろうそくが灯ったケーキ。
「せーの!」
「おたんじょうび、おめでとう!」
娘は照れくさそうに笑って、大きく息を吸い込む。
ふぅ――。
ろうそくの火が揺れて消えた。
「けせた!」
「やったぁ!」
妻が手を叩く。
安心する。
(俺は、ここに居ていい……)
娘はテディベアを抱えたまま、ケーキを頬張り、口の周りをクリームだらけにして笑っていた。
「パパ」
「ん?」
「くまさんね」
娘はテディベアを抱きしめながら、小さな声で言う。
「きょうから、いっしょにねる」
伊藤は笑った。
「そうか」
「うん! パパ、ありがと」
その一言に、妻がそっと目元を押さえる。
「博志さん……ありがとう」
部屋を見回した。
笑顔。
ケーキの甘い匂い。
娘の笑い声。
(――ほらな)
心の中で、件をあざ笑う。
(俺は正気だ。俺は娘を愛している。切り裂き魔になんて、なるはずがない)
時計の針が、夜の10時を回る。
娘はテディベアを抱きしめたまま、小さな寝息を立てていた。
頬には、まだ笑った名残が残っている。
伊藤はその寝顔を見つめ、そっと部屋の灯りを落とした。
最高の誕生日は、もう終わった。
「あ……明日の朝の牛乳、切らしちゃった」
妻が困ったように笑う。
「俺が買ってくるよ」
「ごめんね」
「すぐ戻る」
伊藤は上着を羽織り、静かに玄関を閉めた。
夜の空気は冷たい。
肺いっぱいに吸い込むと、熱の残っていた身体がゆっくり冷えていく。
足取りはまっすぐだった。
頭も冴えている。
酒のことなど、もう考えていなかった。
酒類のコーナーを、通り過ぎる。
コンビニの袋を提げて帰る。
牛乳が一本。
妻の好きなお菓子も一つだけ買った。
静まり返った路地へ足を踏み入れた、その時。
足が止まる。
自宅マンションの前。
街灯の下に、誰かが立っていた。
長身の人影は、微動だにせず、部屋を覗いている。
その瞬間だった。
熱が全身を駆け抜ける。
息が浅くなる。
守らなければ。
娘を。
妻を。
今すぐ。
頭は驚くほど冴えていた。
恐怖もない。
迷いもない。
ただ一つ。
あれを、ここから追い払う。
気づけば、右手にはナイフが握られていた。
「……出ていけ」
低い声が漏れる。
窓へ伸びた腕を狙い、刃を振り抜く。
肉を裂く。
確かな手応え。
温かい感触が掌へ伝わった。
だが。
動かない。
伊藤の呼吸が止まる。
首だけが。
ゆっくり。
ぎり。
ぎり。
人間ではありえない角度まで回っていく。
街灯に照らされた顔が、伊藤を見た。
そして。
『ヒ……』
『ヒ……』
『博志さん』
『どこ』




