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大型案件の決済種別は『一家心中』――死んでも止まらない派遣社員は、322歳の社長を許さない  作者: 葛石
第六章 件の約束編

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嘘だ

挿絵(By みてみん)


深夜2時。


薄暗いマンションのキッチン。


男は冷たい床に座り込み、寝室の扉を見つめていた。


静まり返った部屋。


壁掛け時計の秒針だけが、音を刻んでいる。


頬を伝う涙が、顎から床へ落ちた。


足元には、空になったウイスキーの瓶。


鼻の奥に残る酒の匂い。


吐き気を誘う。


数日前まで、アルコール依存症の治療を受けていた。


覚えているのは、ほんの一場面だけ。


『もう絶対に飲まない。裏切らない』


妻の手を握り、誓った。


あの涙も。


あの決意も。


嘘なんかじゃなかった。


本気だった。


命を失っても守るつもりだった。


それなのに。


最初の一口を飲んだ記憶はない。


気づいた時には、瓶は空になっていた。


「……なんでだ」


喉がひりつく。


胸の奥が締めつけられる。


寝室の向こうには、妻が眠っている。


起きないでくれ。


お願いだから、この姿だけは見ないでくれ。


そう願うほど、扉から目を逸らせなかった。


その時だった。


キッチンの暗がりが、ゆっくりと揺れた。


硬いものが床を打つ音。


――コツ。


――コツ。


蹄だった。


細い脚が闇から現れる。


痩せ細った牛の胴。


骨が浮き出た首。


そして。


そこに乗っていたのは、深い皺に覆われた老人の顔だった。


虚ろな目が、男を見つめている。


(……まただ)


男は視線を逸らし、次のウイスキーの瓶を見る。


喉が、ごくりと鳴った。


(朝まで、まだ時間がある。あと少しだけなら――)


老人は何も言わず近づいてくる。


鼻先が男の胸元に触れそうなところで止まった。


大きく息を吸う。


その瞬間。


胸の奥をかき回していた苦しみが、ずるりと引き抜かれる感覚が走った。


涙が止まる。


喉を締めつけていた何かが消える。


代わりに、胸の中へ冷水を流し込まれたような静けさ。


老人の口元から、黒い靄が細く吸い込まれていく。


「……あ」


声が漏れる。


妻の泣き顔を思い浮かべる。


何も感じない。


胸が痛むはずなのに。


ただ事実だけが頭に残っていた。


喉をゆっくり鳴らす。


満ち足りたように息を吐いた。


『……ごちそうさま』


人間の声だった。


『いい約束だった』


老人は静かに目を細めた。


『家族を愛し、自分を変えようとした。本気だった』


男は反射的に腕を振る。


すり抜ける。


そう思った。


だが、掌に伝わったのは、痩せた肉を打つ確かな感触だった。


『だから、美味い』


男の呼吸が止まる。


温かい。


生き物の体温だった。


「……お前」


唇が震える。


「幻覚じゃ、ないのか」


老人は静かに首を振る。


『まさか』


皺だらけの頬がゆっくり持ち上がる。


『私は、お前たちの本気を誰よりも知っている』


男は息を呑む。


いつの間にか、視界の揺れが消えていた。


酒だけが喉の奥に残っている。


「……お前は、何なんだ」


老人は目を伏せる。


『忘れたか。――私は件(くだん)』


その瞳が、底の見えない黒へ染まる。


『さあ、次の予言だ』


『――明日。お前は最後まで娘を愛している。そして正気のまま人を切り裂くものとする』


男の全身から血の気が引いた。


「……何を」


喉が震える。


「俺が……? 娘の誕生日だぞ。そんなこと――するはずがない!」


怒りのまま瓶を掴む。


その腕が止まる。


ガラスの感触ではない。


冷たい。


硬い。


指に馴染む革の柄。


ゆっくり視線を落とす。


血が乾き、黒くこびりついたナイフ。


見間違えるはずがない。


キャンプへ行くたびに研いできた、自分のナイフ。


「……なんで」


頭の奥で、何かが弾ける。


赤。


悲鳴。


逃げ惑う足音。


裂ける肉。


見開かれた目。


「あ……」


呼吸ができない。


胃がひっくり返る。


「嘘だ……」


膝から力が抜けた。


「俺が……?」


件は答えない。


やがて影へ溶けるように、その姿は闇へ消えていった。


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