嘘だ
深夜2時。
薄暗いマンションのキッチン。
男は冷たい床に座り込み、寝室の扉を見つめていた。
静まり返った部屋。
壁掛け時計の秒針だけが、音を刻んでいる。
頬を伝う涙が、顎から床へ落ちた。
足元には、空になったウイスキーの瓶。
鼻の奥に残る酒の匂い。
吐き気を誘う。
数日前まで、アルコール依存症の治療を受けていた。
覚えているのは、ほんの一場面だけ。
『もう絶対に飲まない。裏切らない』
妻の手を握り、誓った。
あの涙も。
あの決意も。
嘘なんかじゃなかった。
本気だった。
命を失っても守るつもりだった。
それなのに。
最初の一口を飲んだ記憶はない。
気づいた時には、瓶は空になっていた。
「……なんでだ」
喉がひりつく。
胸の奥が締めつけられる。
寝室の向こうには、妻が眠っている。
起きないでくれ。
お願いだから、この姿だけは見ないでくれ。
そう願うほど、扉から目を逸らせなかった。
その時だった。
キッチンの暗がりが、ゆっくりと揺れた。
硬いものが床を打つ音。
――コツ。
――コツ。
蹄だった。
細い脚が闇から現れる。
痩せ細った牛の胴。
骨が浮き出た首。
そして。
そこに乗っていたのは、深い皺に覆われた老人の顔だった。
虚ろな目が、男を見つめている。
(……まただ)
男は視線を逸らし、次のウイスキーの瓶を見る。
喉が、ごくりと鳴った。
(朝まで、まだ時間がある。あと少しだけなら――)
老人は何も言わず近づいてくる。
鼻先が男の胸元に触れそうなところで止まった。
大きく息を吸う。
その瞬間。
胸の奥をかき回していた苦しみが、ずるりと引き抜かれる感覚が走った。
涙が止まる。
喉を締めつけていた何かが消える。
代わりに、胸の中へ冷水を流し込まれたような静けさ。
老人の口元から、黒い靄が細く吸い込まれていく。
「……あ」
声が漏れる。
妻の泣き顔を思い浮かべる。
何も感じない。
胸が痛むはずなのに。
ただ事実だけが頭に残っていた。
喉をゆっくり鳴らす。
満ち足りたように息を吐いた。
『……ごちそうさま』
人間の声だった。
『いい約束だった』
老人は静かに目を細めた。
『家族を愛し、自分を変えようとした。本気だった』
男は反射的に腕を振る。
すり抜ける。
そう思った。
だが、掌に伝わったのは、痩せた肉を打つ確かな感触だった。
『だから、美味い』
男の呼吸が止まる。
温かい。
生き物の体温だった。
「……お前」
唇が震える。
「幻覚じゃ、ないのか」
老人は静かに首を振る。
『まさか』
皺だらけの頬がゆっくり持ち上がる。
『私は、お前たちの本気を誰よりも知っている』
男は息を呑む。
いつの間にか、視界の揺れが消えていた。
酒だけが喉の奥に残っている。
「……お前は、何なんだ」
老人は目を伏せる。
『忘れたか。――私は件』
その瞳が、底の見えない黒へ染まる。
『さあ、次の予言だ』
『――明日。お前は最後まで娘を愛している。そして正気のまま人を切り裂くものとする』
男の全身から血の気が引いた。
「……何を」
喉が震える。
「俺が……? 娘の誕生日だぞ。そんなこと――するはずがない!」
怒りのまま瓶を掴む。
その腕が止まる。
ガラスの感触ではない。
冷たい。
硬い。
指に馴染む革の柄。
ゆっくり視線を落とす。
血が乾き、黒くこびりついたナイフ。
見間違えるはずがない。
キャンプへ行くたびに研いできた、自分のナイフ。
「……なんで」
頭の奥で、何かが弾ける。
赤。
悲鳴。
逃げ惑う足音。
裂ける肉。
見開かれた目。
「あ……」
呼吸ができない。
胃がひっくり返る。
「嘘だ……」
膝から力が抜けた。
「俺が……?」
件は答えない。
やがて影へ溶けるように、その姿は闇へ消えていった。




