アクリルガラスの向こう側
8時45分。
庶務課のドアを開ける。
「おはようございます!」
遠藤の声に、デスクに向かっていた二人の女性社員が同時に顔を上げた。
「おはようございまーす!」
「遠藤さん、おはよう!」
返ってきた声は、いつもより明らかにトーンが高い。
部屋全体が、朝から妙にそわそわした空気に包まれていた。
遠藤は自分の席に腰を下ろした。
まだ指に馴染まない『係長』のネームプレートをそっと指先で整える。
急な正社員登用で緊張したけれど、他課からの応援の2人とはうまくいっている。
なんとかやっていけそうだ。
パソコンの電源を入れ、起動を待つ間。
トントンとキーボードの上で指先を遊ばせた。
システムが立ち上がると同時に、真っ先に社内サイトの通知アイコンをクリックする。
(……きた、きましたーー!!)
画面に躍り出た『夏の賞与明細』の文字。
予想以上の数字に、思わず頬が緩みそうになる。
チラリ、と。
液晶画面の端から向かいと隣のデスクを覗き込む。
二人は真面目な顔で画面を見つめている――が、二人とも口元が完全にニヤけている。
隠せていない。
みんな、今明細を見たのだ。
手に入った、自由の軍資金。
遠藤の頭の中は、すでに狙っていた隠れ家カフェの光景で埋め尽くされていた。
湯気が立つほどふわふわの厚切りパンケーキ。
お皿から溢れんばかりの、色鮮やかな限定スイーツ。
(よし、今週末は絶対に贅沢する……!)
頭の中で生唾を飲み込んだその時、始業を告げるチャイムが短く部屋に鳴り響いた。
遠藤は気持ちを切り替え、背筋をピンと伸ばして立ち上がる。
「みなさん、朝礼を始めますよー!」
「はーい!」
元気な返事が返ってきた。
◇ ◇ ◇
夕暮れの赤提灯。
そこは倉持の行き付けの隠れ家だった。
外の喧騒から切り離された狭い個室で、二人の刑事は静かに杯を交わしていた。
「ようやく、俺達の代であのヤマを落としたな、陣内」
「はい。これで『ご隠居』の鼻を明かしてやれますよ」
「そうだな……。てっきり『福止め』だけだと思っていたが、他にも『言えず』なんてもんが潜んでいた。道理でパズルのピースが全て埋まらん訳だ」
倉持が猪口を飲み干すと、陣内がすかさず次を注ぐ。
「……しかし参ったな。黒岩さんにどう復命したもんかな。陣内、お前から言ってくれないか」
「いやぁ……、私からだと、また拳骨を喰らいそうですから。倉持さん、頼みますよ」
倉持が低く笑い声を漏らした、その時だった。
トントン、と遠慮のないノックが響く。
直後、ガラガラと引き戸が豪快に開け放たれた。
「おう、お前等。現職のくせにコソコソ何サボってやがる」
狭い天井にその巨躯を縮め、頭を下げて潜り込んでくる。
現役を退いてなお、周囲を圧するようなガタイ。
捜査一課きっての巨漢である陣内と並んでも微塵も引けを取らない。
黒岩は畳を軋ませ、ズシリとあぐらをかいた。
倉持が慌てて徳利を手に取る。
「あぁ、いい。手酌でやるから構うな」
黒岩はそれを手で制し、自ら徳利を掴んだ。
「黒岩さん、ご報告が。――『福止め』、手いっぱいで幕になりました」
黒岩の動きが、ピタリと止まる。
「……フン。本星をハメたか」
黒岩はゴソゴソと、年季の入ったジャケットの胸ポケットを探る。
小さく折り畳まれた新聞の切り抜きを取り出した。
卓に放り、手酌の酒をゴクリと喉に流し込む。
陣内が大きな身体をさらに縮めるようにして、声を潜めた。
「……御大。実はこのヤマ、どうも裏の筋がありまして――」
「本当にヤマが落ちたんなら、なんでお前ら二人ともよお――」
黒岩が乱暴に、空になった徳利を卓にコンと突いた。
「なんで、そんな割り切れねえ『クソ』を飲み込んだようなツラ、してやがるんだ?」
「……いえ、そんなことは」
「陣内、お前さっきからずっと貧乏揺すりが止まってねえぞ。ホシを挙げた刑事のツラじゃねえな。まだ現場の匂いがプンプンしてやがる」
「あ……」
「おい、倉持。おめえもだ。肚にイチモツ抱えてる顔をしてる。……まだ、裏の『本星』が残ってんな?」
倉持は言葉を失い、苦虫を嚙み潰したような表情のまま、ただ御大を睨み返した。
◇ ◇ ◇
ショッピングモール。
騒がしいカフェ。
氷室は、行きかう会話を聞き澄ませていた。
少しでも探ろうとしていた。
だが、感情の針が、微塵も動かなかった。
(……そろそろ1時間は経つか)
行き交う人々の名前や余命、若干の光る輪郭を流し見していた。
「パパ! これが見たい」
斜め右後ろの席。
10分前、推定5歳の娘を休ませに来た30代の父親。
「ん-、凛。もっと可愛いのにしたら? ペンギンとかさ? ほら、可愛いよ。」
「やだ! 深海魚がいい!」
――深海魚。
太陽の光が決して届かない、永遠の暗闇に閉じ込められた生物たち。
(……あ、少し、気になる)
氷室はウェリントンのサングラスの位置を直す。
「水族館で見たい!」
「ええ、もうすぐ閉まっちゃうな……。分かった、急ぐぞ! パパと一緒に、行こうー!」
キャッキャと騒ぐ少女。
(すまないな父親、私も連れて行って貰おうか)
氷室は静かに、その親子の追跡した。
丁度、目の前で受付の入場ゲートに鎖が掛けられようとしているところだった。
気づいた女性スタッフが振り向く。
「あ、大丈夫ですよ。ご入館ですか?」
「はい」
手続きを済ませ、エントランスを潜り抜ける。
大きな魚のトンネルも、白黒の鳥のプールも、氷室は一瞥もくれない。
一番奥の、光の薄い場所へと歩を進める。
『深海エリア』。
そこは、青黒い影が支配する静寂の世界だった。
水槽の中に僅かに光る点。
深海魚の座標。
吸い込まれるように、氷室は巨大なアクリルガラスに一歩、にじり寄った。
冷たいガラスの先に広がる暗闇。
(何だろうな、これは。……凄く、気になる)
冷徹な瞳で、薄暗い水槽のすべてを凝視する。
その時、一匹の異形と、目が合った気がした。
凍りつくような冷気が、背筋を駆け抜ける。
同時に、氷室の唇が、歪な形に吊り上がった。
(あはは……。そうか。そうだったんだ)
アクリルガラスの向こう側。
冷たい水の底。
深海魚たちすら怯えて立ち寄らない、光の死角。
そこに、青白い男が一人、膝を抱えて座り込んでいた。
人間ではない。
魚たちと同じ、濁りきった瞳が、ガラス越しに氷室を見つめ返している。
(どこにでもいるんだな、怪異)
胸を満たすのは、恐怖ではなかった。
底知れない歓喜。
「なあ、怪異。――私は、お前たちにだけは、狂うほど興味がある」




