あの結婚式、あのソムリエ
とある休日。
手早く身支度を整え、玄関のドアを開ける。
「ここだろ?」
ガチャリ。
氷室はしっかりと握った。
目の前に広がっていたのは、行きかう人たちの名前と寿命、鮮やかな世界だった。
駅へと続く、いつもの見慣れたアスファルト。
(ああ、あの名前に付いて行けばいい)
迷うことなく歩く。
老舗の弁当屋からは、父親と息子の無邪気な話し声が響いてくる。
その隣に佇むパン屋の看板には、母親と娘が開店の準備をする声が聞こえた。
一度は狂気に呑まれ、壊されたはずの日常。
そのすべてが、何事もなかったかのように、穏やかに呼吸していた。
風が焼きたての小麦の匂いを運んでくる。
弁当屋の女店主が、通りを歩く氷室の姿を捉えた。
因果の光が、ふいに、引かれた。
氷室がふと、足を止める。
女店主が深く頭を下げている光。
その横で、娘が笑顔で小さな手を振っていた。
もう、理不尽に脅かされることはない。
この街でこれから先も幸せに生きていく。
――生存:高橋 隆太(67)
高橋 翔太(37)
高橋 英子(34)
高橋 未希(07)
高橋 大誠(03)
駅前のタクシープール。
立ち上る排気ガス。
アスファルトのむっとするような熱気。
道路の反対側では、騒ぎ立てる若者たちのグループを、四人の警察官たちが押さえつけていた。
その最前線で一際輝く男。
周囲を威圧するベテラン刑事、倉持。
その視線が、人混みを通り抜けて氷室を捉えた。
彼は一瞬だけ、ニィと、口元を緩めると、おどけた仕草で指先を額にあてた。
親愛を込めた、略式の敬礼。
氷室はそれを、ふっと鼻で笑う。
(ああ、それくらいなら、……見えるぞ)
隣の巨躯がそれに気付くと、頭を下げた。
氷室は口角を上げる。
ざわめく人混みの奥、駅の雑踏へと、氷室の背中が静かに溶けて消えていく。
この街を愛する刑事たち。
明日もまた、この街の日常を見守っていく。
――生存:倉持 剛 (48)
陣内 勝 (42)
井上 陽向(32)
綾瀬 玲奈(26)
ついに、その場所に辿り着いた。
煌びやかであるはずの、結婚式場。
グラスに注がれるシャンパンの音。
弾ける泡の涼やかな飛沫。
すべてを祝福するような華やかな音の洪水。
円卓を囲んでいるのは、かつての庶務課だ。
その賑やかな喧騒が会場を満たしている。
「あ、社長……。お疲れ様です」
気後れしたように声をかけてきたのは、遠藤だ。
「遠藤。『先輩』でいいと言っている」
「い、いえ。なんかもう、遠くに行きすぎちゃいまして……」
「そうか」
氷室は短く返し、自分の席を引いた。
そして、隣に立つ白鳥へと目を向ける。
「……社長。流石にそのリクルートスーツは、いかがなものでしょうか」
「……? ああ。そうだった。ファッションか、……すまない、忘れていた」
改めて白鳥の姿を視界に収める。
「教えてくれ、白鳥。お前と遠藤は、どんな格好をしている?」
「……言葉にすると恥ずかしいのですが、私はネイビーのパンツスーツを着ています。遠藤さんはガーリーなライラックピンクのドレスです」
指先を、いつもの服に這わせる。
ザラと破れ、ほつれた箇所がある。
「ああ、私は浮いているんだな、白鳥」
「……。」
胸の奥深く、完全に凍りついていたはずの感情の底が、かすかにひび割れる。
自嘲気味な、乾いた笑い。
だが、それはかつて自分が人間だった頃の、懐かしい痛覚の証明だった。
――生存:遠藤 葵 (22)
白鳥 美砂(33)
華やかなファンファーレが鳴り響いた。
披露宴の幕が盛大に上がった。
氷室の瞳が、会場の一角を静かに捉える。
無機質な名前が文字列で視える。
氷室の無茶なプラン変更を、現場で支え切った営業たち。
ふと、沢渡の名前が揺れる。
すぐに隣にいた赤城の名前が揺れた。
促されるように振り返った赤城。
(こっちを見ている)
二人は示し合わせたように、手元の何か――グラスを小さく掲げてみせた。
――生存:伊藤 博志(27)
日向 渚 (24)
沢渡 澪 (24)
赤城 晴馬(24)
「社長、一応、お伺いしますが」
白鳥が淡々と告げる。
「ああ」
「社長からのご挨拶、式の序盤に組み込まれています」
「そうか。白鳥、私はどうすればいい」
白鳥は氷室の手を優しく包むと、無線イヤホンを差し出した。
「お伝えします」
「ああ、助かる。お前には無理ばかりさせている、もう少しだけ時間をくれ。思い出せる気がするんだ……せめて、感情だけは、人間らしく、な」
氷室は、身体が覚えている、一番優しいはずの笑顔をした。
すぐ横でそれを聞いていた遠藤は、二人の間に漂う空気の重たさに、少し距離を取った。
その時、テーブルに不気味な影が差した。
「お飲み物をどうぞ――」
ワインボトルを抱えた、一人のソムリエ。
その声を聞いた瞬間。
白鳥の身体が石化したように完全に硬直した。
彼女の周囲から、完全に呼吸の気配が消える。
氷室の視線が動き、男の頭上へと向けられた。
生存:志馬 駿介(33)
一礼する男。
何事もなかったかのように気配が立ち去ろうとする。
「白鳥」
氷室の口から漏れた低い声。
周囲の賑やかな喧騒と場違いなほど、冷めている。
「私は――真面目に生きる人間の理不尽が、どうしても許せない」
「……はい」
氷室の左手。
そこに宿る黄金の炎が、内側から脈打つように微かに輝きを増していく。
運命の、因果の糸。
氷室はその指先で力任せに引き絞った。
理不尽に歪められた世界を、今度こそ、その左手で正しく修復するために。
【運命の修復】
――志馬 駿介(33) 運命:祝福されている
「知っているぞ」
氷室は、男の背中に染み込ませるように言葉を紡いだ。
「三年間、お前がどれほど真面目に生きようとしていたか。――奥さんと、幸せに生きてくれ。これが、今の私にできるすべてだ」
理解される安らぎが、彼の魂に触れた。
ソムリエが、弾かれたように振り返る。
その瞳には、底知れない敬意が宿っていた。
震える手で差し出された、透明なワイングラス。
白鳥はそれを、静かに受け取った。
役目を終えた視線を、再び祝福の中心へと戻す。
そこには、眩いばかりの白の世界が広がっていた。
――生存:真壁 涼子(24)
真壁 悠人(28)
(良かったな、涼子)
胸の内で、静かにその名を呟く。
感情も、倫理観も、一度は死に絶えたはずだった。
会場に響き渡る温かい歓声と拍手。
その一つ一つが、氷室の壊れ、摩耗した心の破片を、丁寧に、優しく縫合していく。
光の奔流と化したバージンロード。
氷室はもう見えない風景画を鑑賞するように、ただじっと見つめていた。
(ああ、きっと、綺麗だ)
そして、ついにその瞳から、一滴が零れ落ちた。
――生存:日無牢 結異(24)
運命:怪異達に守られている。
第五章をお読みいただき、ありがとうございます。
『氷室は、復讐を果たしました』
物語は完結しました。
でもそれは、この地に根付いた因果の表層です。
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怪異の正体、この地に眠る真相。
皆様の熱量が、それを暴く、氷室の原動力に届けば。
氷室は再び、止まりません。




