マイナス 255
迷いはない。
指先を突き立てる。
【運命の改竄】
――生存:遠藤 葵(22)
確定。
因果の鎖が、音を立てて書き換わる。
逆再生される世界。
爆散した外壁が、鉄の質量が、時間を逆行して部屋の外へと吸い出されていく。
12時47分。
リモコンを操作する。
画面を、何事もなかったかのようにホームへ戻す。
「何か見る?」
「えー、先輩、普段は何を見てます?」
偽りの平静。
それを切り裂く、金属が擦れ合う悲鳴。
鼓膜を抉るブレーキ音。
背後の窓の外を、巨大な影が猛烈な速度で通過した。
直後、轟音。
激しい地鳴りが、足元を激しく揺さぶる。
「えっ、今の、……やばくないですか?」
「そうね。もう大丈夫──」
ターゲットは外れた。
因果の軌道を変えた。
だが、世界はタダでは書き換わらない。
氷室の中の大切な何かが破砕される。
寿命が根こそぎ削り取られていく感覚。
確信。
魂の摩耗とともに、視界が急速に黒く染まった。
ズキリ、と脳を刺す鈍痛。
(……頭が痛い)
フローリングの床。
氷室は這いつくばるようにして目を覚ました。
起き上がる。
テーブルの上に散らかった、乱雑な缶とアルコールの残臭。
その反対側。
無防備に丸まって眠る、遠藤の身体。
(──助かった)
見慣れた、いつもの自室。
遮光カーテンの隙間から、冷徹な朝日が差し込んでいた。
「……おはようございます」
身を起こす遠藤。
「大分、飲んだのね」
「はい……頭が割れそうです」
7時42分。
世界のシステムが、再び日常の速度で回り始める。
「ああ、もうこんな時間。準備しないと」
「はい。そういえば──何も起きませんでしたね」
遠藤が小さく笑う。
「……そうね。変なことに付き合わせて、ごめん」
「いえ、いいんです! ……あ、そういえば先輩、どうして交通事故の動画ばかり見てるんですか?」
氷室の思考が、ピタリと停止した。
見ていない。
この『現実』では、動画の再生ボタンすら押していない。
「……遠藤。その動画、いつ見た?」
「え? 先輩の家に来て……あれ? なんだろう。頭がぼやけて……変ですね、飲みすぎたかもです!」
記憶の不具合。
因果を強制的にねじ曲げた代償が、微かなノイズとして少女の脳を侵食している。
(……深追いは、やめろ)
焦点を合わせる。
網膜が、冷徹な数字を弾き出した。
遠藤 葵(22)余命:69年
死の宣告は消滅した。
氷室は、眼前の数字だけを信じることに決めた。
手早く、出社の支度を始める。
「――休暇の申請、受け取ってません。これは立派な無断欠勤になりますよ」
白鳥の冷たい声が響く。
「申し訳ございません」
機械的に頭を下げる。
隣で遠藤も追随した。
不機嫌に歪む白鳥の顔面。
その上に、冷徹な数字が浮かぶ。
白鳥 美砂(33)余命:3日
昨日より、確実に1日削られている。
人の命を玩具にする、見えない世界の強制執行。
(……ああ、許せない)
「ちょっと、聞いてるの? 貴女──」
「営業フロアの清掃がありますので、失礼します」
3日後にはもういない女だ。
言葉を交わす価値もない。
白鳥の制止を捨て、一瞥もくれずにフロアを去る。
背後で、白鳥の驚愕した息遣い。
歩きながら、スマートフォンをスクロールする。
画面に映る、社内営業のデータ。
新東邦物産 担当:伊藤博志。
言得洲企画 担当:真壁悠人。
真壁。
脳裏を過る、昨日の事故ニュース。
横転した車の運転手と同じ苗字。
営業フロアの扉を開ける。
年商1000億を掲げる、浮ついた欲望の匂い。
シュレッダーの袋を交換しようとした、瞬間。
「派遣さん、これどうぞ。いつもありがとう」
振り向くと、上機嫌そうな伊藤。
デスクから高級洋菓子の小箱を差し出してきた。
「あ、ありがとうございます。いいのですか?」
「もちろん! 貰って貰って! 新東邦物産のコンペ、正式にうちで受注決まったのよ! 上半期のノルマ一発クリア!」
「……受注、大変でしたか?」
伊藤の顔が、微かに曇った。
「ん-、正直、ずっと競合に負けてたんだ。でもさ、あっちの担当者が急に不祥事で飛んでさ! コンペ当日に自滅。なんか勝手にこっちに転がり込んできたんだよね」
(……また、運か)
幸運の皮を被った、不可避の悪意。
「タイミングが良すぎて、ちょっと怖いくらい。静子社長の肝いり案件だと、特にこういうのがあるんだよね~」
伊藤が身を翻す。
「あの、真壁さんはどちらですか?」
「真壁? ……なんか忌引きみたいだよ。急ぎ?」
「いえ、また改めて」
点と点が、血の線で繋がっていく。
伊藤の不自然な勝訴。
真壁を襲った喪失。
すべてが繋がっている。
エレベーターが上昇する。
重い扉が開いた先は、静寂が支配する役員フロア。
規定の時刻。
社長室のドアをノックする。
社長──福止静子は、パソコンの光に顔を照らされたまま、一瞥もくれない。
声はない。
静かに植木の手入れを始める。
鋏の鋭い金属音だけが室内に響く。
この女が、あの因果を操っているのか。
茂みの隙間から、福止へ視線を固定する。
集中。
氷室が覗き込む。
福止め死ず子(322)余命:-255年
人間ではない何かが、そこにいた。




