時速120km
(……は?)
開く、エレベーターの鉄の扉。
「ちょっと遅れたから、並びますよ! いいんですか!?」
無邪気に笑う遠藤。
だが、氷室の脳裏には、あの一家惨殺の血飛沫がフラッシュバックしていた。
世界は嘘をつかない。
遠藤は今日、確実に死ぬ。
「あれ、氷室先輩?」
運命は、少しだけなら捻じ曲げられる。
あのカッターナイフのように。
(ふざけるな、変えてやる)
氷室は手招きをした。
「遠藤、今から帰る。午後休を取る。私の言うことを聞いて」
「えっ、どうしたんですか、先輩……」
困惑、そして微かな期待の混ざった瞳。
庶務課へ引き返し、デスクの私物を強引にバッグへ押し込む。
「……氷室さん? 遠藤さん? 何してるの?」
不信そうな白鳥の声が割り込む。
「体調不良で、午後休をいただきます」
バチン、とPCの主電源を落とした。
「はい? 体調不良は仕方ないことだから分かりました。けど、もっと早く言ってくれないと──」
振り返る。
網膜に、冷酷な光が走る。
白鳥 美砂(33)余命:4日
(この女もか──いや、今は遠藤だ)
「二人とも帰宅します」
「二人とも? 流石にそれは……。氷室さん? 何を考えてるの? 契約問題になりますよ、何かあるなら、ちゃんと説明を――」
「失礼します」
一刻も早く、このオフィスから去る。
世界の悪意から、遠藤を引き剥がす。
「せ、先輩、あの……」
怯えて首をすくめる後輩。
「いいから、来なさい」
会社と社宅の中間。
あの弁当屋の反対側、コンビニエンスストア。
「家に着いたら説明する。今はついてきて」
「わ、わかりました」
遠藤に泊まりの品を買い込ませる。
食料、衣類、衛生用品。
カゴに放り込まれる生活の痕跡。
世界は、必ず殺しにくる。
あの地獄のやり口なら、もう知っている。
手早く会計を済ませる。
(……くだらない不運など、絶対に認めない)
「先輩、いつもより怖い顔してますよ……」
答えない。
氷室の社宅。
アパート一階、1LDK。
鉄の扉を閉め、鍵をかける。
ようやく、肺の空気を吐き出した。
「遠藤、一回だけ私を信じて」
「はい、信じます!」
「今日、遠藤が死ぬのが見える」
遠藤が首を傾げる。
だが、氷室の網膜を覗き込み、表情を硬くした。
「……え。でも先輩、それ、本気の目ですね」
「ここで一日だけ過ごす。会社の責任は私が取る。いい?」
「わかりました!」
氷室はガムテープを引き剥がした。
鋭い破裂音が室内に響く。
不要な家電のプラグをすべて抜く。
キッチンの扉を、執拗に目張りしていく。
刃物、尖った角、通電する回路。
たった一つの破片が、因果の引き金になる。
最悪の芽を、一本ずつ、徹底的に間引く。
「……私、頭がおかしいでしょ」
「遠藤は、氷室先輩を信じます」
真っ直ぐな視線。
「……そう」
時計を見る。
12時47分。
タイムリミットまで、あと11時間と少し。
緊張を紛らわせるため、リモコンを押す。
画面に映る、未解決事件の考察動画。
「先輩、やっぱり、そっち系なんですね……」
「違う──」
言いかけた、その瞬間。
視界が、真っ白に弾けた。
「え――」
鼓膜を突き破る、金属の悲鳴。
心臓が、恐怖で凍りつく。
遅れて、突風。
遠藤の肌を襲う、無数の刺突。
全損した窓ガラスが、キラキラと、残酷なほど美しく乱反射しながら肉体を切り裂いていく。
迫る、巨大な影。
光を遮り、浴室の壁を紙細工のように爆砕して突き進んだ。
それは、圧倒的な、鉄の質量。
逃げられない。
思考すら追いつかない速度で。
世界は遠藤の、すべてを、圧殺しに来た。
◇ ◇ ◇
騒がしい男の声。
氷室の思考が漸く、周囲への関心を始める。
眼は取調室の冷たい床を見つめていた。
「――話せ、氷室ッ! お前は何を知っているッ!」
鼓膜を震わせる、倉持の怒号。
だが、その熱量が酷く遠い。
どうでもいい。
視線の先、壁掛けのテレビ。
『本日午後12時すぎ、乗用車が横転。道路脇のマンション一階に突っ込みました』
防げなかった。
『運転していた真壁大翔さん(29)、同乗していた真壁里香さん(29)、室内にいた遠藤葵さん(22)が巻き込まれ、その場で死亡が確認されました』
「ああ、遠藤。……ごめん」
「まるで、最初から知っていた口ぶりだな」
倉持の目が、ぎらりと不気味に光る。
――あの時。
部屋に刃物はなかった。
最悪の芽はすべて摘み取ったはずだ。
なのに、なぜ車が突っ込んできた。
違う、そこじゃない。
(なぜ、私は生きている?)
『交差点で乗用車が曲がりきれずに横転』
脳の回路が、高速で因果を編み上げる。
運転手と遠藤。
彼らは「今日死ぬ運命」を背負って居たとしたら。
(私は、違った?)
だから、部屋ごと蹂躙されても生き残った。
もし、交差点で死ぬはずだった遠藤を、無理やり部屋に閉じ込めたなら。
(世界は、辻褄を合わせにくる?)
遠藤の交通事故を起こすためだけに、時速120キロの鉄の塊を、交差点から部屋まで引き寄せた可能性。
世界は、絶対に獲物を逃がさない。
悍ましいほどの、論理の整合性。
倉持がさらに距離を詰める。
歪む顔。
「――うるさいッ!!」
左手を掲げる。
(……このクソみたいな因果、今度こそ叩き潰す)
世界が、拒絶の音を立てて反転を始めた。
視界が、灰の濁流と化す。
景色が強制的に再構築される。
「先輩、やっぱり、そっち系なんですね……」
遠藤の言葉の途中で、氷室は真っ直ぐに窓の向こうを睨み据えた。
来る。
知っている。
遠藤の言葉が、突如として爆音にかき消された。
直撃。
凄まじい風圧。
突っ込んでくる、歪んだ鉄の塊。
だが、氷室の身体には、爆散したコンクリートの一片すら掠りもしない。
「そう。私がタワマンに住んでたら、どうするの?」
氷室の唇から、乾いた笑いが零れ落ちる。
浮かび上がる、玩具にされた運命。
【運命の改竄】
――どの運命を救う?
品目
大型案件の新規受注(新東邦物産)
決済種別
交通事故(真壁)
内訳
真壁 大翔(29) 余命:45年 倫理:高 幸福:中
真壁 里香(29) 余命:56年 倫理:高 幸福:高
真壁 ――(-1) 余命:―年 倫理:― 幸福:―
遠藤 葵 (22) 余命:69年 倫理:高 幸福:中




