帰るさ
高い位置から、声が降り注いだ。
「……協力を示せよな、氷室。静子のこと、黙っててやってるだろ? お前、次の案件は最低100人分を受注しろよ? ――おい、聞いてんのか!?」
視界は、最初からただの漆黒だ。
ただ、圧倒的な暴力の残響だけが、耳鳴りとなって脳を揺らしている。
まだ動けない。
(……もう、裏切ったのか、座敷童)
ドスッ、と。
みぞおちに、硬く重い塊がめり込んだ。
言得洲の、岩のような足が、床に這いつくばる氷室の腹を踏みにじる。
「……ッ、」
「ビジネスパートナーです。一緒に協働していきましょう、氷室社長」
靴底に体重をかける。
じりじりと肉をすり潰しながら、男はまたビジネスの声音に戻る。
「私も数年前に父から事業を承継した身ですから、その「重さ」はよく分かります。お互い、背負った看板に潰されないように、一緒に頑張りましょう」
氷室の口から、苦い胃液が溢れた。
男はその反応に満足したように笑うと、氷室の髪を乱暴に掴み、顔を持ち上げる。
「――おめえの社員、殺すぞ?」
ゾクッと、氷室の背筋に冷水が走る。
身体が勝手に跳ねた。
「氷室。お前、本当に、座敷童を使えてるのか?」
髪を掴まれたまま、揺さぶられる。
頭皮が引き千切れそうになるほどの激痛。
「聞いてんのかッ!!?」
鼓膜を破らんばかりの怒声。
遠のきかけていた意識が、強制的に引き戻される。
「ああ、……はい」
ポタポタと、唇を伝った熱い液体が床に落ちる音がした。
血の味がする。
その音を聞いて、ようやく、髪の拘束が解かれた。
どさり。
遠ざかっていく、大きな足音。
珈琲を啜る音が響いた。
「……そうですね、次回の発注は、御社の300周年記念を祝いまして、300人の発注でお願いしたいと思います」
始めて対面した時と変わらない。
極めて友好的な、穏やかな声。
「おい、断らねえよな? 氷室」
◇ ◇ ◇
『本日は、白鳥さんは不在ですかな?』
リアルタイムで盗撮されている言得洲との会議。
白鳥は手当てした右手を忌々しく握りしめ、画面を見つめる。
――もし橋本が裏切ったら、やれ。
その指示の通り、暗闇の中で橋本を監視する。
「ババア~、情報が出てきましたあ~」
「早くまとめなさい」
「うるさ~い、ババア~」
白鳥は言得洲企画の役員を洗っていた。
『おめえ、納期守れよコラアッ!!』
激しい破壊音。
急いで振り返る。
白鳥の目でも分かった。
橋本のおぼろげな光が消失していた。
それは氷室を守る光、裏切りの証。
「白鳥さま~、次は何を調べましょうかあ~」
うすら笑う怪異。
白鳥は飛び跳ねるように席を立つ。
カチッ。
鉄が鳴る。
「ヒ、ヒエッ、そ、そのカッターは……ダメッ」
カチカチッ。
せり出す、無慈悲な銀色。
喉元の皮膚に、冷たさが食い込む。
「今すぐ氷室様を守れ」
「痛いの嫌ッ、わ、かったやめて、それ、それ嫌ッ!!」
『――おめえの社員、殺すぞ?』
「……私には、これしかできない」
白鳥の震える右手が、カッターを強く握りしめた。
親指の包帯に、じわりと赤い血のしみが浮かんだ。
二度と裏切らせないための、恐怖の刷り込み。
ガチガチと狂ったように揺れる刃先が、湿った耳輪を這う。
「ごべ、ごべんなざッ――ひ、う、あ」
カチッ、カチィッ……
「ヒッ、ヒィアッ……」
金属の悲鳴が、脳髄に直接縫い付けられる。
カチッ、カチチチチチチチチィッ!!
「うわ、あああああああああッ!!」
もう、とっくに光は戻っている。
「氷室様を守れ」
「はひぃいイイッ!! もッ、もう、やってますよおぉッ!!」
白鳥は、画面に向かい、猛烈な歯軋りをしていた。
画面の向こう側。
圧倒的な体躯を持った大男が、床に倒れた華奢な女性を、踏み潰しながら笑っている。
白鳥は微動だにせず、ただその地獄を網膜に焼き付けていく。
右手の拳が、骨の鳴るほど固く握り締められている。
握り潰された傷口から、溢れた鮮血が指を伝う。
ポタ、ポタポタ。
床には、静かに血溜まりが出来ていた。
◇ ◇ ◇
零れ落ちる、珈琲。
血で床を汚す、息の粗い氷室。
溢れた珈琲が、あり得ない軌道で跳ね、カップへと吸い込まれた。
「……なるほど。本当に不安定だな」
冷徹な手が、氷室の身体を椅子へ押し込む。
「状況は理解しました。明日のミーティングで、対策を協議していきましょう」
そう言うながら、退室を促す。
「おい、退けよ、貧乏神。邪魔だ」
沈黙。
言得洲の拳が、怪異の肉を殴り抜く。
壁への激突。
だが、怪異は音もなく、無造作に立ち上がる。
「あああ~ッ、おめえ、本当にッ、イラつかせるなああッ!!!」
苛立ちが爆発する。
鉄製のパイプ椅子が、容赦なく振り下ろされた。
激しい金属音。
「おい、帰れ、氷室」
(ああ、帰るさ)
「……失礼します」
氷室は一礼すると、部屋を出た。
背後で鳴り響く、執拗な破壊音。
ドアの外。
歯を鳴らし、激しく震える秘書。
氷室は一瞥もくれず、その横を通り過ぎた。




