納期
翌日。
9時40分。
言得洲との約束のデッドライン。
『10時までに殺人事件』
氷室は、その要求を冷酷に黙殺した。
適当に時間を稼げばいい。
あの男は、明日死ぬ。
『本日納品の件、座敷童の調整に時間を要しています。申し訳ございません。明日中に必ず納品します』
乾いた声で、音声入力した。
「社長、清掃が完了しました! 失礼します!」
庶務の遠藤が、そそくさと退室しようと扉に手を伸ばした、その刹那。
白鳥の両手が、生き物のように悶えた。
そのまま、自らの首へ容赦なく喰い付く。
「え!? ……ッ、……ぅぐ、……ぁ」
「白鳥?」
「白鳥さん!?」
氷室がその手を掴み、必死に引き剥がそうとする。
突如、鳴り響く着信音。
理解した。
氷室は素早く通話に出る。
『氷室さん。私は午前中に確実にお願いしたいと言った』
「白鳥さん……ッ、ダメ、外れない――ッ!」
ブチッ。
湿った木の枝をへし折るような、嫌な音が室内に響いた。
首を締め上げる白鳥の親指。
その爪が、肉の限界を迎えて剥がれ落ちる。
滴る鮮血。
「――申し訳ございません、お許し下さい。お願いです、白鳥を殺さないで下さい」
屈辱に顔を顰める白鳥。
己が足枷と化した、無惨な現実。
『氷室さん。何時、できますか?』
「明日の12時までに、必ず」
一瞬の間。
珈琲を啜る、酷く不快な音。
『遅せえんだよッ!! 納期は守れよな氷室。……その女は殺す』
ブツリ、と通話が切れる。
ギチギチと、さらに肉が締め上げられる。
「白鳥、さん……」
ドサッ。
床に崩れ落ちる肉体。
「おい、嘘だろ、白鳥……」
震えるスマートフォン。
機械恩がダイレクトメッセージを読み上げた。
『貴社の誠実な対応を希望しております。今回は許します。次はありません』
「が……っ、はぁ、はぁ……ッ」
白鳥が、血を吐きながら立ち上がろうとしていた。
「申し訳、ござい、……はぁ、ません、はぁ、私が――」
「済まない、私が見誤った。本当はもう、殺しておかなければいけない相手だった……」
氷室の冷徹な言葉。
遠藤は目を見開いて震えあがった。
頼もしくて憧れだった先輩も、厳しくても実は部下思いだった上司も、もう居なかった。
二人の背中が、遠くに見える。
遠藤は静かに立ち上がると、無言で一礼した。
そして、逃げるように、社長室から退室した。
「白鳥、この状況だ。私が一人で行く」
静かな、肯定の頷き。
血が止まった親指を消毒すると、白鳥は黙々と、包帯を巻き始めた。
グッ、グッ。
きつく、きつく締め上げる。
まるで、誰かの首を絞めるかのように。
言得洲との、定時接触が迫る。
「二つ、頼みがある」
「はい」
「先方の役員クラスの端末が欲しい。手配できるか」
「……はい」
わずかな躊躇。
「……すまない。それと、会議中はあの座敷童を監視してくれ」
白鳥の鉄の仮面は、微動だにしない。
「はい、お任せください」
だが、網膜の奥。
どす黒い、底なしの殺意が澱んでいる。
許されない。
己が氷室の弱点として利用された、無惨な屈辱。
氷室は、座敷童の性質を白鳥へ伝えた。
白鳥の頭脳が、その性質を深く理解する。
そして、氷室は音もなく、社長室を後にした。
言得洲企画の本社。
会議室。
(……デイリーミーティングという名の、言得洲の監視)
「本日は、白鳥さんは不在ですかな?」
白々しい質問
「……体調不良です」
氷室は短く応じる。
「それは、心配ですね」
(時間を稼げばいい)
暗闇の底で、氷室は思考を研ぎ澄ます。
(……明日、お前を殺す)
コツン、コツン。
規則正しく、机を指先で叩く音が響く。
「……なあ?」
低かった声が、急激に熱を帯びる。
「おめえ、納期守れよコラアッ!!」
突如、激しい風圧。
大気を潰すような咆哮と同時に、世界が反転した。
――めぎりッ!
衝撃は、遅れてやってくる。
左顎を砕くような痛みが走り、氷室の華奢な身体は椅子ごと吹き飛んだ。
壁に激突して、止まった。
ドガッ。
巨躯が立ち上がる音。
足音の震動が、額に直接、伝わる。
もうあと数歩。
ギシッ。
──暗闇の目の前に、大きな質量。




