カッターナイフ
怪異が、氷室のすぐ脇を通り過ぎていく。
気配が遠ざかるのを待つ
氷室はスマートフォンを操作する。
『赤城、そっちに向かった。警備室に戻るのを見届けたら作戦終了だ。沢渡を連れて帰宅しろ。協力に感謝する』
即座に、赤城からの返信が跳ねる。
『了解』
氷室の表情が、綻んだ。
――画面を消した、その瞬間だった。
視界の右半分が、どろりとした漆黒に塗り潰された。
――右目が、完全に死んだ。
どれだけ瞬きをしても、もう何も映さない。
氷室は立ち上がる。
エレベーターのドアが閉まる音を確認し、静かに動き出す。
あとは、決着を付けるだけ。
指先の感覚だけでエレベーターのボタンを押す。
重量感のある金属ドアが、左右に開いた。
「一人で、やる気ですね」
「……ぁ」
完全に死に絶えた右側の暗闇から、白鳥の声が真っ直ぐに届いた。
「私も行きます。貴女の、目になります」
拒絶する理由は、なかった。
「……わかった。もう左目しか見えてない。すまない」
「はい」
覚悟を孕んだ短い返事。
突然、冷え切った右手を、温かい手のひらが包み込んだ。
(……助かる、白鳥)
二人の足音が、冷え切ったビルに小さく重なった。
右側の視界は、完全な虚無。
左目だけに見える白鳥の背中を、ただ信じて先へと進む。
薄暗い廊下の奥、警備室の重い扉が見えてきた。
鍵は、かかっていない。
白鳥がドアを押し開ける。
続くドアの先。
二階へと延びる、急な階段。
一歩、一歩、闇を確かめるように、踏み締めて上る。
最奥の扉。
開く。
氷室は、邪魔な眼鏡を暗闇へ投げ捨てた。
目の前に広がったのは、密閉された暗闇。
瞬間、残された左目の視界が、鋭利に覚醒する。
異様なサーバールーム。
無数の精密筐体がチカチカと明滅し、青白い光を不気味に放っている。
ゴォオオ、と唸るファンの音。
サーバーの排熱が、ねっとりと肌を触れる。
その、電子の光の底。
そこに怪異がいた。
――座敷童(橋本 悠陽)。
バタン。
扉が閉まる。
完全な密室。
濃厚な暗闇。
逃げ口は、完全に消失した。
「え、ユイ……? ユイだったの? 凄いよ。ぼくの力が通じない人間が居るんだね……。初めて見たよ」
油じみた声が、闇の奥底から這い出てくる。
乾いた音を立ててスナック菓子の袋が弾け、不快な摩擦音を立てて、獣のような影が四つん這いで這い寄ってくる。
「ねえ、ユイ~。僕と遊ぼうよぉ」
「消した人間を、元に戻せ」
凍りついた氷室の声。
電子の熱気を切り裂く。
「ええ、それはぼくでも無理だよ」
氷室は静かに、カッターナイフの刃をせり出した。
鼓膜を引っ掻くような、硬い金属音。
狙いは、左目が映す怪異の、その醜悪な喉元。
「あっ、やめたほうがいいよ! ユイ、危ないよ」
本当にこちらの身を案じる、純粋な橋本の声。
因果の歯車が、ガチリ、と音を立てて噛み合う。
「ユイ、ね? 転んで自分の首を切っちゃうよ。危ないよ、止めようよ! ぼくが守ってあげるからさ、遊んでよぉ~、ね? ね?」
身体が他人事のように、床へと引き寄せられる予感。
理不尽に刃物は手から滑り落ち、当然のように、自分の首に喰らい付く運命。
世界が、その確率ゼロの因果を強制執行しようとしている。
氷室の最後の左眼は、足元から這い上がる光る糸――殺意を持ったその光の束を捉えていた。
だが。
氷室の指先は、微塵も揺らがない。
お前の作った、クソみたいなルール。
そんなものは、勝手にやっていろ。
「死ね」
躊躇なく、カッターナイフを振り上げた。
「ユイ! だめだって! プライドが高いよ~ッ!」
――ザクッ、
迷いなく、刃を自分の喉元へ突き刺した。
皮膚を切り裂き、肉を貫く、確かな抵抗と手応え。
それを、何度も。
狂ったように、深く、突き立てる。
「ヒッ!? ヒィッ、ユ、ユイ!? なにしてるの、なに、して――」
視線だけは、怪異から1ミリも逸らさない。
――引き摺り落とす。
私の、底なしの不運へ。
ズタズタに開いた喉から、直接、冷たい空気が流れ込んでくる。
最後まで残っていた左目の光も、死んだ。
完全な、闇。
支えを失った肉体が、床へと崩れ落ちる。
頬に触れた、タイルカーペットの不快な感触。
それすらも、急速に遠のいていく。
「ユ、ユイ……? ぼくの、幸運じゃない……っ、ど、どうして、自分で……っ!」
「――10時15分。会社員の氷室結衣さんが刃物で刺されて亡くなりました」
白鳥が、淡々と観測した自殺現場を、世界に言い付けた。
――因果が、確定した。
発動。
氷室の口角が引き裂けるほど、吊り上がっていた。
【運命の改竄】
――どの運命を救う?
品目
█████
決済種別
████████
内訳
███ 結█(24) 余命:9分3秒 倫理:壊 幸福:壊
座敷童(1679) 余命:― 倫理:― 幸福:低




